ちょくげノート

日々のことを綴ろうと思っています。はてなダイアリーが終了してしまったのではてなブログに全記事移行しました。

社会性の構築

まずは「自分がどう感じるか」に気づくことは大事なのだと思う。結論を先に置いておくけど、結局は自分の感じることを優先して、それを表に出さずとも気づくのが全ての始まり。それを置き去りにして社会性の獲得などは遠い夢物語なのだと知る。こないだ知った。

「相手の立場になって考えろ」の罠から抜け出すために

社会性がないという現実

 ところで私は神経発達症である。診断できる限りの最重度ときた。ただ、ここではそれを免罪符にしたくない。発達特性を理由にしてしまえば話は早いし、それっぽい説明もつく。けれど、私が本当に言いたいのはそこじゃない。
 発達特性抜きにして、とにかく私は社会性がなくて困ってきた。
 困ってきたというのは、何か一回大失敗したとかそういう話だけではない。もっと地味で、もっと積み重なるタイプの困り方だ。じわじわ効く遅効性の毒みたいな。タチが悪い。
 気づいたら人が離れているとか、気づいたら評価が下がっているとか、気づいたら「何もしてないのに嫌われている」みたいなことが起こる。そして、なぜそうなるのかが全くわからない。そしてそのことを素直に伝えると「ふざけるな」と怒られが発生する。
 社会性という概念は私には「よくわからんもの」の代表格だ。マナーとか気遣いとか礼儀とか、そういうものの多くは「守ったところで別に得はしない」ように見えるし、むしろ存在しない方が楽だとすら思う。
 それがないと困る人がたくさんいるらしい、という事実も理解が及ばない。理解というか、想像力をフル回転させても届かない。自分の限界を感じる。
 ただ、社会性という概念を悪者に仕立てて殴ったところで、あまりスッキリしない。
 社会性を馬鹿にしたり、社会性を信奉している人を嘲笑ったりしても、現実は変わらないからだ。
 現実として、社会性概念は圧倒的多数に必要とされ、社会性概念は圧倒的多数の間で共有され、それを持っていない私が損をする。
 という世界が厳然と存在する。ここがしんどい。いつの間にか理解できないルールで回っている。そして置いていかれ非難される。「メチョペンペケがニョメニョメルンバだからお前はダメなんだよ」と言われているようにしか聞こえない。マジで。理解できるのは「お前はダメなんだよ」の部分だけ。
 「社会性なんていらない」と思う自由はある。しかし、社会性が前提の場で生きる以上、社会性がない者が不利になるのは当然といえば当然だ。だから、身につけなければならない。身を構える。
 でも、これがうまくいかない。

「相手の立場になって考えろ」の罠

 社会性の話になると、だいたい言われることが決まっている。
 「相手の立場になって考えろ」
 「相手がどう感じるか想像しろ」
 なるほど、道徳の教科書みたいで正しい。
 でも、私はこの言葉にずっと引っかかっている。というか、根本的に無理では? と思っている。
 相手の立場になって考える。相手がどう感じるか想像する。そんなもん相手じゃないんだから分かりようがない。
 まず、私がいま何を考えているか、あなたは分かりますか?
 わかったらすごい。ありがとう。でも多分わからないに違いない。
 私はあなたのことを何もわからない。そもそもあなたの内部は見えない。見えないものを理解するなんて、想像頼りでしかない。
 そして、想像は見事に外す。
 たとえば、目の前に人がいる。会話が始まる。そのとき私は「この人は今なにを考えているのか」を本当の意味では把握できない。把握できないから、結局どうするかというと、無難な行動のテンプレで返すしかない。
 とりあえず相槌とりあえず笑うとりあえず謝るとりあえず褒めるとりあえず黙る
 この「とりあえず」で生き延びる。
 生き延びるだけならできる。けれど、テンプレに頼るほど相手の反応は読めなくなる。テンプレの精度が低いからだ。
 ここで厄介なのは、「相手の立場になれ」と言う側が、たいてい想像を外したときの責任を取ってくれないことだ。まあ、当然ではある。「相手の立場になれ」というだけ言うのは自由だしそれを私が守れなかったからと言って「それみたことか」と『だから言ったのに山』の頂上で『間違いの海』で溺れる私を嘲笑う『正しさの王』でしかないから。
 外したのはこっちで、空気が壊れるのもこっちで、怒られるのもこっちである。
 「相手の立場になって考えろ」は、優しい助言の顔をしているが、実はけっこう残酷だ。
 だってそれは、「当てて当然」というゲームを始める宣言に等しいから。当てられなかったら、「思いやりがない」「社会性がない」というラベルを貼られる。当てたとしても、別に褒められない。そして外す確率だけが高い。
 そうなると私は、社会性のトレーニングをするほど「賭けの期待値が低い」ように感じてしまう。 だから身につかない。うまくいかない。
 でも、問題は「想像力がない」だけではない。  ここで一回、視点を変える必要がある。
 私は「他人の気持ちがわからない」ことを問題として扱ってきたけれど、そもそも前提が怪しいのではないか。
つまり「他人の気持ちがわからない」→「想像できない」→「社会性がない」
 という一直線の図式で語っていたが、実はその前にもう一個、抜けている段階があるかもしれない。
それが「自分がどう感じているかに気づいていない」である。
 思い返すと私は、自分が何を感じて、何を思って、何を発信しているかについて、わりと自動操縦モードで生きてきた節がある。哲学的ゾンビとまでは言わないが、それに近い何か。刺激に反応して行動はしている。でもその行動が「自分の意思」なのか「反射」なのかが曖昧で、主体性が薄い。
 たとえば「されて嬉しいこと」「されて嫌なこと」について、私は今まであまり意識を馳せてこなかったのかもしれない。
 そういう問いを立ててこなかった。しかし、ここが社会性の土台なのではないか。
 なぜなら、他人の気持ちを想像するとき、材料になるのは基本的に「自分の感情モデル」だからだ。
 他人の気持ちは見えない。
 だから、人は自分の中の「こうされたら嬉しい」「こうされたら嫌だ」をベースに仮説を立てている。と思う。
 そして私の場合、その材料が薄い。あるいは未整理。だから、想像が外れる。

「自分が嬉しいこと」と「他人が嬉しいこと」は違う

 ここまで来ると、もう一つ大事な事実が出てくる。仮に自分の感情に気づけたとしても、それがそのまま他人に適用できるとは限らない。むしろ経験上、「自分が嬉しいこと」は「他人が嬉しいこと」ではないことが多い。
 私は昔、差し入れとしてブドウ糖を渡したことがある。理屈としては完璧。脳の燃料だし、疲れたときに効率よく元気が出る。合理的。でも嫌がられた。なんでや。
 この出来事は、私にとって象徴的だ。私は「役に立つもの」を渡した。しかし相手は「嬉しいもの」を受け取りたかった。そこがズレていた。社会性というのは、このズレをゼロにする能力ではない。ズレをゼロにするのは不可能だ。人間が違うから。
 社会性とは、多分もっと現実的な技術で、ズレが起こりうる前提を持ち、ズレたときに壊れないようにし、ズレを修正していくという「運用」の力なのだと思う。
 そのためにはまず、ズレの存在に気づけなければならない。  そして気づくためには、自分がどう感じているかを観察できる必要がある。
 自分の感情に気づくことは、思った以上に難しい。ここで「じゃあ自分の感情に気づこう」と決めたとしても、すぐにできるわけではない。
 むしろ、ここが一番むずい。
 自分が接しているものに対して、どう感じてどう考えたかを自覚するのは、思った以上に難しい。というより、慣れていないとほぼ不可能に近い。私たちは普段、「感じる」ことを勝手にやっている。
 暑い、寒い、うるさい、だるい、嬉しい、焦る、むかつく。
 発生はしている。でもそれを認識して、言語化して、把握するところまで到達しない。
逐一脳内で言語化していると疲れる。それなら無頓着にスルーして、好きなものだけに集中した方がずっと楽だし楽しいし、QoLも上がるように見える。実際、短期的にはその方がいい。
 しかも私は感情屋で、感情に頻繁に振り回される。気がする。ここですら自認が怪しいので、私は「信頼できない語り手」になってしまう。
 「振り回されている気がする」.  「多分そうだと思う」.  「なんとなくしんどい」.  この曖昧さが、また社会性を難しくする。
 社会性の場では、曖昧さはしばしば誤解を生む。誤解が人間関係を壊す。壊れた後に「なんで?」と考えても、すでに遅い。
 つまり私は、外界(他人)の問題に見えていたものが、実は内界(自分)で詰まっていた可能性が高い。

「気づき」は能力ではなく作業である

 ここで重要なのは、気づきは才能ではなく、作業だということだ。気づける人は生まれつき気づける、みたいな話ではなくて、気づきは一定の手順で増やせる。
 ただし、努力とか根性の話にすると続かない。だから私は、気づきを「習慣化可能な手続き」に落とす必要があると思っている。
 気づきの最小単位は、たぶんこれだ。
 自分の内部で起きた変化を、後からでもいいから拾い上げる。リアルタイムでできなくてもいい。
 「その瞬間に気づけなかった自分」を責めても意味がない。後からでも拾えれば、それは次の素材になる。そして素材が増えるほど、想像の精度が上がる。

気づきを増やすための具体的な方法

 ここからは、私が「これならやれそう」と思ったやり方をいくつか書く。
 完璧にやる必要はない。むしろ雑でいい。雑にやって、回数で勝つ。

感情を「単語」にしておく

 感情は、巨大で曖昧な塊のままだと扱えない。だからまず、ラベルを貼る。
 「安心」「不安」「苛立ち」「恥」「退屈」「興味」「嬉しい」「悲しい」「焦り」「罪悪感」「期待」「警戒」.  このへんの単語を、ただ手元に置く。そして一日に一回だけでいいから、こう書く。
 今日いちばん強かった感情は「」である、と。
 当てずっぽうでもいい。重要なのは正解することではなく、感情に名前を与える習慣を作ることだ。

「身体の反応」を観察する

 感情は意識より先に身体に出ることが多い。
 たとえば「肩が上がっている」「胃が重い」「口が乾く」「呼吸が浅い」「手に力が入る」「目が泳ぐ」など。
 こういう反応を拾う。「私は今なにを感じているか」が分からなくても、身体から逆算できることがある。
 「いま身体がこうなっている」→「多分こういう状態」→「多分こう感じている」.  この順番でいい。

「出来事→感情→欲求」を分解する

 社会性が壊れる場面では、たいてい出来事がある。そして感情が動く。その裏に欲求がある。
 たとえば、
 出来事:話を遮られた.  感情:苛立ち.  欲求:最後まで聞いてほしい/尊重されたい.  この分解を、後からでいいのでやる。欲求が見えると、自分の行動に主体性が戻る。主体性が戻ると、「社会性のテンプレ」もただの反射ではなく、選択になる。

「失敗の再現」をやる(責めない前提で)

 社会性の失敗は、思い出すだけでしんどい。だから普通は避ける。でも避け続けると、素材が増えない。
 ポイントは、「反省」ではなく「再現」だけすることだ。
 「何が起きたか」.  「自分は何を言ったか」.  「相手はどう反応したか」.  「そのとき身体はどうだったか」.  「後から思うと何を感じていたか」.  これを、淡々と記録する。裁判ではなく、観察日記として書く。

「相手の気持ち」を当てにいかない

 相手の気持ちを当てにいくと、外す。外すと壊れる。だから最初から当てにいかない方が良い。
 代わりに、こうする。
 「私はこう受け取った」だけ言う。
 「意図は何だった?」と聞く。
 「こういう理解で合ってる?」と確認する。
 社会性の高い人がやっているのは、超能力ではなく確認作業だと思う。当てるゲームではなく、すり合わせのゲームに持ち込んでいる。
 この発想に切り替えるだけで、「相手の立場になれ」という呪いが薄まる。

社会性とは「他人を理解する力」ではなく「壊さない技術」かもしれない

 ここまで書いて、私は社会性をこう捉え直したくなった。
 社会性とは、相手を完全に理解する力ではない。
 完全な理解は不可能だ。人間の内部は見えないから。
 社会性とはむしろ、自分の反応に気づき、相手とズレる可能性を認め、ズレても修復できるように振る舞う、という運用の技術だろう。
 そして運用するために必要なのが、自分がどう感じるかに気づくことだ。他人の気持ちがわからない、という問題は、「想像力がない」という一言で片付けられがちだが、本当は「材料がない」「材料が整理されていない」という形で現れていることがある。
 材料とは、自分の感情である。自分の感情に気づけるほど、他人の感情を“推測”できるようになる。推測できるほど、すり合わせができるようになる。すり合わせができるほど、壊さずに済む。
 気づきを得ていく、ということ。
 気づきは、一回やったら終わりではない。むしろ気づきは、増えていくものだ。増えるほど世界の解像度が上がる。
 最初は「なんか嫌だった」で終わる。
 次は「無視された気がして嫌だった」になる。
 次は「尊重されない感じがして嫌だった」になる。
 次は「尊重されないと、自分の価値が削られる感じがして怖かった」になる。
 こうやって、感情が細かくなる。細かくなると、行動が選べるようになる。
 黙る以外の選択肢、キレる以外の選択肢、逃げる以外の選択肢。
 社会性というのは、たぶんこの「選択肢の数」だ。
 正しい行動を常にできることではなく、状況に応じて選べる幅があること。その幅は、気づきが増えるほど広がる。

人生は積み重ね

 私が社会性を身につけるのが難しい理由は、たぶん劇的な変化を期待してしまうからだ。一回の学びで、別人みたいに振る舞えるようになることを期待してしまう。
 でも現実はそうではない。社会性は資格試験ではない。合格ラインを超えれば終わり、というものではない。
 日々の運用でしか上がらない。気づきも同じだ。「今日は気づけた」ではなく、「気づける瞬間が1%増えた」くらいの話でしかない。
 しかし、1%が積み重なると、世界が変わる。
 私は「相手の立場になれ」という言葉が嫌いだった。無理だから。わからないから。
 その言葉は、私を罪悪感で殴るだけで、具体的な手順をくれなかったから。でも今は、そこから一歩ずらしてこう言い直したい。
 相手の立場になる必要はない。
 まず、自分の立場に気づけ。自分がどう感じているか。自分が何を怖がっているか。自分が何を望んでいるか。自分が何を避けたいか。
 それに気づけるほど、他人を“当てる”のではなく、“確認していく”方向に進める。
 社会性を、超能力ではなく技術として扱えるようになる。
 人生は気づきの積み重ねだ。派手な変化は起きない。けれど、気づきが増えたぶんだけ、自分の選択肢は増える。選択肢が増えたぶんだけ、世界は壊れにくくなる。私は多分これからも、社会性の世界でちょいちょい失敗する。でも、失敗してもいい。
 失敗を素材にできれば、次の一回だけは少しマシになる。
 その「少し」を積み重ねる。
 それが、私にできる社会性の獲得方法なんだと思う。

ふざけてはいけないという重圧

精神科病棟に入院しました。インターネットの解禁を宣言されたので、簡単にアドベントカレンダーのどこかの余白に突っ込むつもりで書いた。まだ23日だから間に合う。
ネット解禁とは言っても、SNSやネット上の人間とのやり取りは自重するように託けられているので、この溜まったモヤモヤはほぼ全てブログに発散されることになると思う。安否確認がしたかった人は、これでもって安否確認としてください。
Twitterにも投げるけど、Twitterには極力顔を出しません。Discordも顔を出さないと思う。
というわけで本題。常々思っていたこと。

真面目ではないのに真面目と評価されることについて

 私は自慢ではないが頻繁に「真面目」と評価される。その場面はプライベートでも仕事でもほとんど変わらない。前職を辞して久しいが、そこでの評価も「真面目」であった。こうも連呼されれば真面目以外に取り柄がないように思えてくる。あれだけの粗相があってもなお「真面目」で通るのだから、社会とはどんな仕組みで動いているのかつくづくわからないものである。
 ろくに行かなかった小学校時代、中学校時代を顧みても素行はよろしくなく、通信簿は悲惨な数字が並ぶ有様であった。そんな存在が、どうして成人したのに伴って「真面目」の評価を下されるようになったのか、ちょっとだけ考察してみた。中にはトラウマなどを抉る描写もあるかもしれないので、注意して読まれたい。

都合のいい真面目像

 思うに、ヒトは社会的動物なのでその中での立ち位置を明確にしなければ役割を遂行できない、と考えたことがあった。過去記事にもあるとおり、思考は不定形で、言語で形を与えてあげなければお出しできるものにならないというのがいい例だ。思考が役割に、言語が評価に置き換わったようなもの。
 役割もまた同じで、その所作や動作や結果のみならず、肩書きや評価で形をとるものだと理解している。となれば、何かしらの評価する語彙がなければ役割は宙に浮いてしまう。本人のみならず、周囲の人間もその本人の扱いがわからなくなる。のだと思う。
 「真面目」というのは響きがいい。つけておけばなんとなくスッキリした気持ちになるだろうし、一見肯定的だからつける側もつけられる側も悪い気分にはならない。これが理由で「真面目」という評価に懐疑の念が向くのだと思う。

ふざけてはいけないという重圧

 「真面目」という評価に対して私の懐疑が向くのは、これがあまりに万能で、あまりに安全で、そして何よりも「その内実を問わない」からである。褒め言葉の体裁を持ちながらも実はラベルを貼った側の「相手が正体不明である」状態の不安を鎮める効能が強い。先述した「相手に役割を与える」効能をも併せ持つ。
 相手がどんな人間で、何を恐れていて、何を望んでいて、どんな矛盾を抱えているのかを吟味せずとも、そんな面倒な手順を踏まなくても、とりあえず「真面目」と言っておけば社会的な取扱説明が成立してしまう。これは便利だ。便利すぎる。便利すぎて、もはや意味がない。
 では、便利なラベルである「真面目」が、貼られた側にとっても便利かと言えば、そうとは限らない。むしろ私は、この便利さが長期的にじわじわと本人を削るのではないかと思っている。なぜなら「真面目」というラベルは、しばしば行動の自由度や、行動の選択肢を奪うからである。
 ふざける、という行為は、軽薄さや怠惰や不誠実と同義ではない。少なくとも私にとっての「ふざける」は、余白であり、呼吸であり、観察であり、試行錯誤であった。場を和ませるとか、冗談で距離を測るとか、意図的に脱力して視野を広げるとか、そういう機能を含んでいるつもりだった。私の創作でも学習でも研究でも趣味でも仕事でも、本気の局面だけを連続させれば、遅かれ早かれガソリン切れを起こしては疲弊し、ついには破綻する。むしろ「おふざけ」があるからこそ真面目さは長持ちする。そういう局面は確かに存在する。
 しかし「真面目」と評価されるとおふざけの自由が狭まる。冗談を言えば「意外だね」と言われ、軽口を叩けば「どうしたの」と訝しまれ、素直に弱音を吐けば「真面目なのに」と落胆されるし、下ネタを言えば本気で咎められるし、成果を出さなければ思っていた以上に評価が下がる。その上、真面目のレッテルを持っていると過度な期待も上乗せされる。要するに「真面目」というラベルは“その人らしさ”というより“その人の役割”を固定してしまう。役割が固定されると、許される振る舞いも固定される、つまり行動の選択肢は極端に狭まる。こうして、ふざけてはいけないという重圧が生まれる。
 さらに厄介なのは、この重圧が外側からだけではなく、内側からも増殖する点は見逃せない。周囲が「真面目」を期待するほど、こちらも「真面目であらねばならない」という演技を強化する。ここでその演技を放り投げられれば、まだ引き返せる。真面目な振る舞いは、短期的には事故を減らす。言葉を選ぶ、礼儀を守る、表情を整える、謝る、時間を守る、責任を引き受ける。これらは確かに社会の潤滑油ではある。だが同時に、演技が積もると“自分が何者か”が曖昧になっていく。なりたい自分と見られたい自分と、見られている自分との著しい乖離である。ふざけてはいけない、という縛りは、単に息苦しいだけではない。自分の輪郭そのものを薄くする。延いては自他の境界すら曖昧にしかねない危険性をも孕むものだ。
 私は、昔からどこかで「ふざけると見捨てられる」と思っていた節があるようだ。ここで過去の具体的な出来事を掘り返していちいち証明するつもりはないが、多くの人にとっても同様に、ふざけることは危険と結びついているはずだ。ふざけて叱られた。ふざけて仲間外れにされた。ふざけて誤解された。ふざけて関係が壊れた。ふざけて評価が下がった。ふざけて損をした。こういう経験があるとおふざけはもはや“禁止”に近いルールに載った禁忌と化ける。
 だから、真面目だと評価されるとき、それは単に「誠実」や「勤勉」を意味しないことがある。私の場合、それは「不安を抱えている」「警戒している」「失点を恐れている」「安全策を取っている」といった内面の痕跡でもある。真面目という評価は、私を褒めているようでいて、ある種の防衛戦略を見抜いた結果でもあり得る。私はそこが怖い。褒め言葉が、いつのまにか檻になっていく。私は社交辞令と本音と建前の区別をつけない。しかし他人がそうである保証はない。故に「真面目だね」のメッセージはそのまま評価だと思ってしまう傾向がある。認めないわけにはいかない、明確な欠格である。
 それでもなお、人は「真面目」という語を好む。言い換えるとどうやら今の現代日本社会は「真面目」という語を好む。なぜだろうか。理由は単純である。真面目は、至極扱いやすいからである。扱いやすいというのは、人格の価値や重さの話ではない。運用の話である。
 たとえば職場で「真面目」と言われる人は、概ね次の性質を持つだろう。
 ・締切に対して過度に恐怖心がある
 ・指示に逆らわない(逆らうとしても丁寧にする)
 ・曖昧さが嫌いで、確認を取りたがる
 ・失点すると長く引きずる
 ・不機嫌を露骨に出さない(出せない)
 ・ミスを隠さず報告する
 これらは、成果が出るか、出ているかどうかなどの結果の足跡とは別に“事故が起きにくい”という意味で評価されやすい。つまり真面目とは能力というよりかは、リスクを抑える振る舞いの総称なのだろうと想像する。
 しかし、ここに落とし穴がある。事故が起きにくいことは、長期的に見ると「挑戦が起きにくい」に変化する。おふざけが許されないとは、つまり試行錯誤が許されないということでもありうる。失敗や挫折が許されない世界では、成功も起きにくい。というか、挑戦なくして成功は在らずなのだから、試行錯誤が認められないのは、そのまま成功を封じられるのにも等しい。これにもかかわらず、真面目というラベルは当人に“真面目であり続けること”を要求しやすい。結果として守りの努力は増えるのに、攻めの成果は一向に増えない。この状態は前進志向や継続志向の精神の持ち主を著しく疲弊させる。
 私は、真面目であることを否定したいわけではない。だが、真面目のラベルに従って生きることは、思った以上に高コストだった。そして、そのコストは“褒められているから”見えにくい。褒められているのに苦しいという状態は、言葉で以ての説明が難しい。言葉での説明が難しいものは、周囲にほとんど伝わらない。言わなければわからないのだから。そして、伝わらないものは、より強く自己の内側に溜まる。こうして、ふざけてはいけないという重圧は完成する。

真面目系クズという言葉

 さて、ここで避けて通れない語彙がある。「真面目系クズ」だ。インターネット由来の、半ば自虐のレッテルである。たまに他虐でキツめに使われることもある。真面目そうに見えるが、実際は怠惰で、口先だけで、成果が出ない。もしくは、真面目なふりで責任だけ回避する。そういう像を指すことが多いように観察される。
 この言葉は残酷だが、一定のリアリティがあるから流通するのだと思う。言葉は短く、意味が広く、便利で、取り回しが良ければ簡単に広まってしまう。
 そして恐ろしいことに、当人の内側から自己診断として立ち上がることもある。私も、真面目と評価されるたびに、この言葉が脳裏をよぎったことがある。真面目と言われるが、実態は伴っているのか。私が真面目であると言われるのは、成果ではなく姿勢だけの話だ。姿勢の良さで信用を借り続けて、いつか支払不能になるのではないか。そういう不安が絶えずある。
 ただ、私は「真面目系クズ」という語彙を、そのまま採用したり運用する気にはならない。理由は二つある。
 一つ目は、この語彙が“道徳的価値判断”と“運用上の失敗”を雑に混ぜているからである。真面目に見えるが成果が出ない人間は、必ずしも倫理的に劣っているわけでも倫理的に逸脱しているわけでもない。単に手続きが下手であるとか、不器用だとか、環境が合っていないとか、認知資源の配分が壊れているとか、そういう要因で結果に不整合が発生することは普通にある。結果が出ないことと、人間の価値は直結しない。直結させた瞬間、この言葉は自罰の道具になる。無論、評価には間接的につながるわけだが。
 二つ目は、この語が“他者の期待”を前提に成立しているからだ。真面目に見えるのに結果が出ない、というのは他者が勝手に抱いた「真面目ならこうあるべき」という期待が裏切られたという話でもある。他者を自己の恣意性に従うだの、コントローラブルだのと思い込むヒトチャンあるあるの誤謬に由来するだろう。つまり、真面目系クズと呼ばれる人は、しばしば「他者の都合のいい真面目像」を背負わされ、その像に沿わなかった罰として強烈に侮辱される。この構造は、私が先に述べた「都合のいい真面目像」と同根だと考える。
 もちろん、真面目を装って責任回避をする人間もいるだろう。だが、私がいま問題にしているのは、そういう狡さではない。むしろ反対に、真面目と評価されることで“おふざけの余地”を失い、守りの努力だけが増殖し、その割に成果や関係が安定しない、というタイプの苦しさである。そこに「クズ」という語を貼っても、何も解決しない。残るのは恥と萎縮だけだ。マジでこういう言葉で他者を攻撃するの本当に良くないと思う。言葉で人を殴るな。私とポエムバトルで勝負だ。脱線。閑話休題
 だから私は、この言葉を自分に適用するのを避けたい。適用したくなる衝動があるなら、それは「自分を裁いて安心したい」心理であり、運用上の改善には繋がらない。裁きは一瞬で終わるが、改善とは地味で長く苦しく泥臭い。地味で長いものに耐えるには、自己侮辱は邪魔でしかない。

本当に真面目にならなければならないのだろうか

 ここまでしつこく書いて、ようやく本題に触れられる。「本当に真面目にならなければならないのだろうか」という問いである。
 この問いに対して、私は「そんなものは時と場合による」としか答えられない。だが、その「時」と「場合」の切り分けを明確にすることは可能だ。
 真面目でなければならない局面は、確かに存在する。
 ・誰かの安全や生活や生命が直接かかっているとき
 ・契約や金銭など、不可逆な責任が発生するとき
 ・明確な締切と成果物が必要なとき
 ・相手が弱っていて、言葉が刃になりやすいとき
 こういう場面では、おふざけは肯定的な武器ではなく凶器になる。真面目さは、倫理である前に安全装置だと思う。
 しかし、必ずしも真面目である必要はない局面も当然存在する。
 ・学習の試行錯誤
 ・創作の発散
 ・小さな雑談
 ・関係の温度調整
 ・自分の回復
 こういう場面でまで真面目を強制すると、全体の維持は不可能になる。人間は機械ではないしコードで動くマシンでもない。常時真面目な機械は、単に冷却装置が優れているだけで、人格が立派であることは意味しない。ましてや人間がそれをやれば、どこかで反動か皺寄せが来る。
 問題は、真面目さのオンオフを自分だけでは選べないことだ。ラベルが固定されると、オンしか許されなくなる。さらに恐ろしいのは、オンが習慣になると、オフにすると罪悪感が湧くことだ。休んでいるのに落ち着かない。遊んでいるのに自分を責める。ふざけた瞬間に「こんなことしていいのか」と自分に警告や監視が入る。これはもはや社会の評価ではなく、内面化した検閲でしかない。
 では、どうすればいいのか。ここで私は、真面目を「人格」ではなく「モード」として扱う提案をしたい。つまり「私は真面目な人間だ」ではなく「私はこの局面では真面目モードを使う」「この局面ではおふざけモードを使う」と宣言して切り替える。変化しづらい性格や人格ではなく、単なる運用の問題に落としこむ。そうすると、真面目であることも、真面目でないことも、道徳ではなく一つの選択になる。
 ただし、この選択はひとりでは完結できない。対人関係の中でのモード切替には、相手の理解が必要なのは論を俟たない。そして相手の理解を得るには、言語化が必要になる。ここで最初の話に戻る。言語は、役割を形にする評価の道具になり得る。ならば、自分のモードを言語化して周囲に渡すことは、相手の混乱を減らし、自分の自由度を確保する手段になり得る。
 例えば、こう言うだけで少し変わる。
 「今は整理できていないので冗談は言えない。後で落ち着いたら軽口も出るだろう」
 「真面目に見えるかもしれないが余裕がないだけ。余裕ができたら話し方も変わる」
 こういう言い方は、内面の事情説明であり免罪符ではない。言い訳や免罪符にしないためには、相手の負担を増やさない短さで言うこと、そして必要なら行動で示すことが必要である。しかし少なくとも「真面目」ラベルに対抗する語彙として充分に機能する。貼り付けられる前にこちらから「状態」の宣言をしてしまうのだ。
 真面目である必要があるのは、常時ではない。局面ごとだ。常時真面目であろうとすると、人生は硬直化する。硬いものは折れるし割れる。折れて割れたあとに残るのは、真面目でも不真面目でもない、ただの疲弊と破滅のみである。

同じような悩みを抱える人へ

 ここまで読んで「わかる」と思った人は、たぶん似た種類の重圧を抱えている。真面目だと言われる。頼られる。誠実だと思われる。
 けれど、自分の内側では、そんなに立派なものではないと知っている。むしろ必死に失点を避けているだけで、余裕がない。ふざけると崩れそうで怖い。だから真面目を続ける。続けるほど苦しい。そういう循環だ。
 もしそうなら、私は次の四つだけを提案したい。大掛かりな自己改革ではなく、運用の微調整として。
 第一に「真面目」という評価を褒め言葉として受け取るのをやめること。これは自尊心や自己肯定感、自己効力感を捨てろという意味では決してない。真面目は褒め言葉でもあり得るが、同時に“相手の安心”でもある。相手の勝手な安心である。強調しておく。相手の、勝手な、安心である。
 安心は価値だが、あなたの人格の全てではない。褒め言葉のみとして抱え込むほど、役割は固定される。あとは先述した通り、選択肢はどんどんと狭まっていくだけだろう。
 第二に、おふざけを“段階的に”解禁すること。いきなり全開でふざけると、周囲は驚くし、あなた自身もその行為に踏み出すこと自体が怖いだろう。だから微量からでいい。軽い冗談を一つ、語尾を少し柔らかく、会話の途中で「いったん水飲むね」と言って間を作る。そういう小さなオフが、真面目モードの過熱を防いでくれる。
 第三に「今は余裕がない」を短く言えるようにすること。説明は長くなるほど言い訳に見える。だから短く言う。我々のようなタイプは、得てして説明は長くなる。この文章がそうであるように。だから、短く。
 「今は余裕がない。落ち着いたら返す」
 「今は危ないので止める」
 この程度でいいと思う。余裕がないと言える人は、実は真面目一本の人より信用されるはずだ。なぜなら予期できない事故が減るからだ。当然予測可能な事故も減少する。
 第四に、修復を前提にすること。内面が真面目な人ほど失点を恐れて萎縮し、結果として不自然になる。不自然は誤解を招き、誤解は関係を削る。だから、失点ゼロの完璧を目指すのではなく、失点したら修復するということを標準装備にする。修復は恥ではない。運用である。自分で書いてて耳が痛すぎる。
 この四つはたいへん地味だ。だが地味なものが、長期戦では効く。あなたが本当に欲しいのは、気分の良い自己肯定ではなく壊れない生活だろう。壊れない生活は、派手な決意ではなく、地味で泥臭い運用で作られる。

結論、私は真面目でないが、それはアピールポイントにはならない。果たしてどのようにすれば私の内面は正確に伝わるのだろうか?

 最後に、いちばん痛い部分に触れる。「私は真面目ではない」ということだ。これは、開き直りたいわけではない。むしろ逆だ。真面目という評価が、私の実像からズレている気がする。ズレているのに、周囲にはズレが伝わらない。そのことが怖い。怖いから、ますます真面目を演じる。演じている気がする。そして演じるほどにズレはどんどん雪だるま式に拡大する。こういう循環がある。
 しかし、ここで「本当は真面目じゃないんだ」とアピールしても、たぶん何も良くはならない。真面目じゃないことそれ自体は免罪符にはならないし、魅力にもならないからだ。むしろ「じゃあ今までの真面目は何だったの」と不信や亀裂を生む可能性すらある。だから私は、真面目でないことを売りにするのではなく、真面目というラベルの外側に、別の説明語彙を作る必要があろうと思う。
 では、内面を正確に伝えるにはどうすればいいのだろうか。私は三段階の言語化が必要だと思っている。
 第一段階は「状態」を伝える。
 例:「今は余裕がない」「今は過敏」「今は疲れている」「今は考えがまとまらない」
 ここでは理由を語らない。状態だけを短く出す。状態が共有されると、相手の解釈が暴走しにくいと思うからだ。
 第二段階は「意図」を伝える。
 例:「攻撃したいわけではない」「距離を取りたいわけではない」「ただ整理したい」
 意図が共有されると相手は“敵意”という仮説を採用しにくくなる。敵意はないと表明するだけで随分違う。人間は一筋縄ではいかないから、さらに説明や情報開示が必要になることもあろう。
 第三段階は「手続き」を渡す。
 例:「10分後に戻る」「文章ではなく通話にする」「今日はここで止めて明日続きをする」
 手続きがあると相手は待てる可能性が生じる。待てる関係は壊れにくい。時は薬なり、だ。
 この三つは、真面目か不真面目かという人格論ではなく、ただの運用の共有だ。私は自分の内面を“正確に説明する”ことを目標にすると、どうしても長文になり、論理になり、説得になり、結果として相手を疲れさせる。だから目標を変える。「正確に説明する」ではなく「誤解が起きにくい最小情報を渡す」ということ。これなら継続できるし、相手も受け取れると期待できる。
 結局のところ、真面目という評価に対抗するのは、別の人格ラベルを用意することではない。「私は真面目ではなく実はこういう人間だ」という新しい看板を立てても、看板が増えるだけで、運用は変わらない。
 必要なのは、看板ではなくプロトコルだ。状態・意図・手続き。この三つを短く渡す練習をする。すると、真面目というラベルは相対化される。相手は「真面目な人」ではなく「この人は今どういう状態で、この人をどう扱えばいいか」を理解できる。
 私は実際真面目ではない。だが、それは誇りにも、免罪符にも、アピールにもならない。私ができるのは、真面目という都合のいい像の背後で起きている“運用”を、相手に渡せる形で整えることだけだ。ふざけてはいけないという重圧から抜ける道は、真面目を捨てることなどではなく、真面目とおふざけのモードを切り替える手続きの獲得にある。私は今のところ、そう考えている。
 そしてたぶん、これもまた緩慢な変化だ。すぐには変わらない。だが、緩慢さに耐えるための小さな言語化なら、毎日積める。真面目であることを続けるより、真面目に“運用を整える”ことを続けたほうが、私は長生きできる気がする。少なくとも、ふざける余白を残したまま。

拝啓この手紙を読んでいるあなたはどこで何をしているのだろう

2月も中盤に差し掛かるとなんとなく「別れ」を意識した季節の予感を感じるようになる。
花粉は飛び出したし日中に厚着をしていると汗をかく日も増えた気がする。
「別れ」と呼ぶにはいささか早いが、かと言ってもう進路を決めた人々にはその2文字は常にチラついていることだろう。
かつての仲間とともに過ごした日々を振り返りながら、各位には次なるライフステージに挑んでいってもらいたい。

ガラでもないが手紙を書いておこうと思う。私に宛てたものかもしれないし、次なるライフステージに挑む諸姉諸兄に宛てたものかもしれない。
はたまた、私の後悔を綴って、手紙の体裁にした単なるポエムかもしれない。まぁ、何かしらの役に立つ文章になっていたらいいなと思う次第である。

物事は「諦め」の連続である

我々人間、生物は死を定められた生き物である。その死はいつやってくるかは分からないが確実にやってくるものである。
そんな中でみんなはきっと「何かやりたいこと」を見つけたのだと思う。そのことについては、寿ぐべきことだ。
しかし残念なことに人生は有限で、脳も有限である。何もかもを完璧にこなし完璧に身につけることなどは、不可能なのである。
こういった「諦め」というものを、身につけて行ってほしいと切に願う。

勘違いしないでほしいのは「やりたいことを見つけたけど才能がないから諦める」といったネガティブな方向の諦めではなくて「これをやるから他は諦めよう」というポジティブな諦めである。
人間誰しも「限界」はある。その限界は果たして「やりたいこと」から君を遠ざける邪魔者だろうか?そうとは限らないこともある。
「限界」を見つけたらそこからは右にも左にも道を変えることが出来る。こういうふうに「諦め」の価値観をアップデートして行ってほしいわけだ。
「私にはこれは出来なかった」という諦めももちろん存在する。けれどもそれは「他の道を探す契機」にもつながることを意識して生き続けてほしい。
何もかもがうまくいくことは稀有だ。そんな中でうまく行かなかったことや過ぎ去ったことに固執して生きていては勿体ない。
今できること、今やりたいことを基準に、人生を建てていってほしい。

この世の中、厳しいし、変動も多い中で確固たる自分を立てるのも必死な思いな人も多いだろう。
でもどうか、周りに流されず、周りに惑わされず、強い力で自分を建てて行ってほしいと思う。
取捨選択の上で「諦め」て、本当に自分の欲しいものを手に入れてほしい。そう願って止まない。

後悔は先に立たないが役に立つこともある

「あのときああすればよかった」という思いを抱くことは、人並みの人生を送っていれば誰しもが直面するネガティブな感情現象だ。
上でも述べた通り、これは固執するだけ無駄であることが多い。後悔は基本的に過去向きの感情で、過去は変えることは出来ないからだ。
だからといって「後悔のないように生きろ!」というのは土台無理な話である。人は何したったって後悔するし、それを引きずるのもまた人生の一幕にあり得るシーンだ。

後悔は失敗から生えることが多い。その失敗は、成功に至る道筋の中で現れるものだ。
だから「後悔をしている」と気づいたら、それに付随する失敗を観察して、同じ過ちを繰り返さないための指針に出来る。
私自身も後悔をなるべく少なくしているが、それでも人生で致命的な失敗を踏んだことは数えきれない。
でも今こうやって元気に生きているのは、他でもなく「後悔を役に立てようとしている」からにほかならない。

人生では全く同じシチュエーションというものはめったに降り注がない。大抵自分の年齢が変わってるし、場所も変わっているからだ。
それでも「後悔を役に立てる」のは可能だ。
似たようなシチュエーションのときに、かつて自分が踏んだ罠を意図的に避けられるか。これもそうだし、自分が踏んだ罠を再度踏んだときの心持ちを予覚できる。
後悔で落ち込むときには、ほぼ必ずと言っていいほど自分の選択を否定する感情が芽生えるものだ。その感情に決して飲まれず、これから過ごす時間を悲しみに染めてはならない。
反省会は、直ちに終わらせるべきなのである。

おわりに

私に宛てたのか誰に宛てたのか、ふんわりやんわりぼやけてしまったが、書けることは書けたと思っている。
考察が足りなくて刺さる文章を書けなかったかもしれないが刺してもしょうがないのでこんな感じで誰かの役に立てたらいいなと思っている。
別れの季節のちょっと手前に、何かしらのアドバイスが授けられたら光栄だ。

ショッキングな出来事に対する防衛術

最近訃報に接した。二人もだ。仲良くしていただけに喪失感が尋常でない。
二人のことの詳細は省くが、学生時代から懇意にしてもらっていた二人だったから、思い入れも悲しみもひとしおのものがあった。
今では去来する思い出に浸って、傷つきを癒している。
でも立ち止まってばかりでもいられない。私はなんとかして前を向き、日々のなすことをしなければならない。
皆さんにも多かれ少なかれ大なり小なり悲しい出来事はあったと思う。
これから綴ることはその悲しい出来事があまりに甚大な時、どうすればいいかを綴ったものである。
私個人が編み出したものだから、皆さんに適用できるかはわからない。
でも、深い悲しみの底にいる時、この記事が少しでも寄り添えるようになるものになることを願うばかりである。

甚大な悲しみに直面した時

心が受け入れきれないため、何かしらの防御反応が表出することがある。例えば、涙が流れる、茫然自失となる、など。
この時は心に余裕がないので、悲しみに立ち向かうことは基本できない
まずは悲しみを自覚し、その反応がおさまるまで待つしかない。
涙は流せるだけ流したらいいし、何もできないなら何もできないままでいい。
必要なのはとにかく自分の素直な心の反応に促されるままに流されることである。
「今は自分は悲しいんだ」「今の自分はつらいんだ」と自覚するのが大事である。
無理して「まだ反応がないから大丈夫」と思ってはならない。ふとした隙に、堤が蟻の穴をきっかけに決壊するように、反応が溢れてくることもある。
悲しみに直面したとき、そのとき、あなたの認識ではもう「悲しい」のであるから。

時間が経ったとき

悲しみは薄れずとも時は経つ。でも悲しみに触れ続けることによりその悲しみに少し慣れることがある。
その時には理性が働くようにもなる。その時に今後の方針をどうしていくか、将来に目を向けてみると良い。
具体的ケースでは「彼は死んだ。でも私は生きている。そうした時、私はどうすればいいか」と考える。
考えるのはまだつらいかもしれない。でも時は待ってくれない。癒しの時間を欲するあまりに、悲しみにだけ目を向けていては、人生を棒に振ってしまう可能性すらだってあるのだから。
これは残酷な宣言かもしれない。しかし人生はこれまた悲しくも有限だ。その有限の時間を、悲しみだけに染めてしまっては失った人はおろか、自分が救われない。
悲しみのあまりに理性が働かないなら、まだしばらく時間を置く必要があるだろう。

悲しみが少しでも薄れた時

悲しみは決して忘れられるものではない。でも、多くの(またはさらに途方もない)時間の果てにはその悲しみが新鮮なものでなくなるかもしれない。
その時に理性を働かせる出番がやってくる。本格的に前を向くフェイズである。
方針としては「理性でどのような将来設計を立てるか」が鍵になる。
理性で方針を立てて心をそれに追随させるという荒療治にも見えるこのやり方が、最も近道だと私は考える。
具体的には「仕事をしなくちゃいけない」「学業に邁進しなきゃいけない」というせっつきたてられる形で現実に引き戻されることが多いと思う。
その時はその要求に従ってやることをやるといい。理性で将来設計を立てられなかったら、まずは周りの社会的要求に従うのが何も考えなくて楽な場合もある。

悲しみを「置いておく」

悲しみを理性で押しとどめろ、とは書いていないことを今ここで確認されたい。
悲しみには素直に従って良いのである
悲しみに十分な時間付き合ったら、今度はその悲しみと一旦決別する必要がある。
何かのふとした拍子に思い出すかもしれないが、それはそれでいい。
「あの悲しい出来事があった」と思い出せるようになったら、それは決別である。

以上の事柄が、各位の悲しみや傷つきに少しでも癒しを与えられたら幸いである。
あなたの人生はあなたのものだ。幸の多からんことを願って、筆をおく。

精神的成長に対するハッカー的態度

問題を解くのが大好きなら自分の成長課題だって「問題」と捉えられないか?

この世界は解決を待つ魅力的な問題でいっぱいだ

いきなり「ハッカーになろう」の冒頭部分タイトルを引用してみた。
私はハッカーになりたい謂わばワナビなのだが、このように問題を解決するという営みに対しては一般人よりかは強い興味と関心を持っていると自負できる。
一つに執筆、一つに数学、一つにロジバン、一つにプログラミング、一つに語学、一つに言語学、一つに文学。挙げるとキリがない。
これらの学問及び芸術は、形式的な側面は多いものの、概ね「問題を解決する」ことで技術や心得を会得できるものだと思っている。
なれば、自身の成長課題についてもこの様なアプローチをすることは、前進に資するのではないかと考えた次第である。
以下は一般論にしようとしたが失敗したので、私の精神的課題に焦点を当てて話を進めたい。

自律ないしは自立

私は自分で言うのも恥ずかしいが「自立」「自律」できていないきらいがある。
ある友人の曰く「他人から要請されるものを自分がしたいものだと置き換えて取り組んできた過去がある」と指摘された。
期待される自分に、自分がなりたいものを牽強付会して、それを自己実現と錯覚してきたのが、私であるとのこと。
そうした結果、自分では「自分のなりたいもの」「自分の欲しいもの」をあたかも「自分で選び取ってきた」かの様に振る舞ってきた。 これは言ってしまえば欺瞞である。
そのような今までの自分を一旦認めて、これからは「本当に自分の欲するもの」に耳を傾け、自立していく必要がある。
この問題の解決方法は、一つは「自分の求めるもの」は本当に自分が求めているものなのかを疑う必要があると感じた。
「人に期待される自分」を欲していたのが今までの私だった。これからは、人に期待されなくても「本当に自分の望むもの」を追い求めていきたいと考える。
思い返せば、やりたいと願ったのに諦めたことは結構あるんじゃないかと人生を振り返って思う。
これからはそういった「やりたかったこと」を反省し、自分の求める自分像を探していく旅に出たいと考える。

過去の断ち切り

人には取り返しのつかない選択のせいで失ったものは山ほどあると思う。一つに進路だったり、恋愛だったり、仕事だったり。
その過去に、私は引きずられがちだった。ひたすら内側を向き、過去を見て、取り返せないものを嘆く時間が多かった。
これからは、そんな過去を「過去の箱」に仕舞い込んで、今と未来を見据えて生きていきたいと思う。
そのための解決策には「現在に邁進する」が挙げられると思う。
現在の現実に目を向ければ、私は仕事を持っているし、趣味も持っている。前述にも係るが、その「やるべきこととやりたいこと」に没頭して、前述の「なりたい自分」に向けてまっしぐらに進んでいくことが、必要なのだと思う。

よしあしものさしの撤廃

価値判断基準を「良い」「悪い」に当てはめないで、ただあるがままに受け入れるということをやっている。
この価値判断基準(撤廃も価値判断基準に含まれる)は、自分で考え出したものである。
その結果、私は物事に対する評価をリセットすることができた。
巷間に出回る言説に対して振り回されることがなくなった。ただそこに「在る」だけだと感じるようになった。
世の中には多分「良い」も「悪い」もないのだと思う。ただそこに存在するのは「存在する」「存在しない」だと思うようになった。
この価値判断基準をもとに、新たに「自分の望むもの」を加え、価値観をアップデートしていく必要はありそうだ。

他人に縋る

「他人の期待する自分」に合わせて選び取ってきたものの多さから、私はおそらく他人に縋りがちなのだと思う。
他人を「頼る」ことは誰しもしていることであるから、それは問題視しない。問題は私は「頼る」を超えて「縋る」ことにあると考える。
他人の目線を気にしてないつもりで、実は他人の要望に沿うような、そんな人生だった。
一旦懇意になった人間に対しては「これからもずっと友達」で在るかの様に振る舞うし、縁の切れることに関してはものすごい悲嘆を覚えたものだった。これは「縋る」と表現して差し支えないだろう。
そんな自分を一旦認め、これからは「他人は操作不可能」という原理を信じて生きていきたいと思う。
人間関係は難しい。構築するのも大変だが、維持管理にも時間的精神的コストを投じる必要がある。
そんな魔境に、飛び込んでいって、私には「縋らない」と言う選択肢を取るのは正直言って恐怖が伴う。
これを解決するにはどうしたらいいか、今の私にはちょっとわからない。だからこそ「問題」として取り上げた。

解決するにはどうしたらいいか

以上の精神発達課題は、形式化するのが難しい。形式化はとりも直さず「捨象」を伴うからだ。
ともなれば、形式化せずに愚直に「自分の思う望むまま」の声を聞く必要がある。
私の問題解決の鍵は、以上に取り沙汰された事柄全てに潜伏する「自分を持っていない」に還元されるからである。
「自分を持つとは何か」難しい問題である。ひとまずは自分の思うがままにやってみて、失敗したらその都度フィードバックし、何が本当の問題だったのかを見つめ直すというフェーズを経る必要がある。これは苦しい作業になる。苦しいが、やってみる価値はあるし、何より「問題を解決したい」と願う私の心に初めて寄り添うものだからである。

これからは、より「苦しい」人生が待っているかもしれない。それでもあきらめず、時には休憩もして、この諸問題に取り組んでいきたいと望むばかりである。

物語を構成するのは単に文字や言葉だけなのか

ブログなのでお出しする内容は結構吟味したりするものですけど、本来ここはノートだったり日記だったり備忘録だったりするのでその制約を一旦なかったことにしてポエムだのなんだのを書いてみることにしました。私は言語学をやってますが、皆さんに比してその知識も技術もしょっぱいものなので、考察も甘いかもしれません、という予防線を張っておきます。

物語の構成要素は言うまでもなく言語ですが、そのさらに分解したものを見てみると言葉や文字になります。ですから物語の「原子」は言葉や文字となるわけです。

しかしそれらがただ羅列されただけでは言葉のサラダになってしまいますね。ですからそこをつなぐものがきっと何かあるはずです。ルール、規則。文法がこれに値するように思えますが、文法は言葉の決まり(とは限らないこともありますがここではそういうことでひとつ)。物語を構成するものとして定めて良いものでしょうか?

非文法的、つまり定められた文法に反するような文は非文と呼ばれますが、これだって物語を構成しても良いはずです。というか、私のブログ含めて日本語の文章と呼ばれる代物は文法をほぼ意識しておらず、頻繁に非文のようなものを生み出しているはずです。だとすると、文法は必ずしも必須というわけではなさそうです。

とは言え、完全に意味が通らない文は物語の部品としては機能しなさそうです。では「意味が通る」とはなんでしょう?これはかなり難しい問題のようにも思えます。

我々が言語を解するのは、常に「意味が通る」とされてきた発話にさらされてきたからにほかならないと思うのです。つまりは「意味が通る」とされる発話、記述の内的蓄積がモノを言うのです。その蓄積から「意味が通る」という解が導き出され、そしてまた我々は発話をするわけです。以降その積み重ねです。

ではなぜ時代によって言語は変容してきたのでしょう?平安時代に話されていた言語と、現代日本で話されている言語とでは、なぜこんなにも違いがあるのでしょう?

これは私の霊感ですが(そもそもこの記事はポエムなので学術的な考察はぶん投げる)言語はそれを話す主体である人間たちの個体それぞれの中で用いられると共に、他個体との意思疎通にも用いられます。私は個体間の意思疎通自体はともかくとして、この「自分の中だけの言語運用」に個体差があると感じていて、その僅かな違いが意思疎通を介して伝播していくのではないでしょうか。これが言語変容の一端を担っている雰囲気はありそうです。

話はだいぶ逸れました。物語の役割の面から考えてみても良さそうです。

物語とは「人に読まれるもの」の一つです。ですから、自分のためだけに書かれた物語もまた自分に読まれることを想定しており、その意味で「誰にも読まれない物語」というものは定義的にありえないわけです。つまり物語は言語の表現の表出であるとともに、人間他個体へもたらされる「意味が通る」記述の担い手です。この記事も物語の一種で、みなさんになにか感情を伝えたりしているわけです。より正確には感情が惹起される原因を蒔いているわけです。

そういった物語の性質を考えるに、物語の構成要素は先程述べた「意味が通る」ものたちの最小要素と言えそうです。ここで合流しましたね。さて「意味が通る」ものたちの集まりは果たして物語たりうるか?という問いが立ちそうです。では数学書は「意味が通る」ものたちの並びだが、物語を書いたものか?六法全書は「意味が通る」ものたちの列挙だが、物語を書いたものか?辞書は?例文集は?などなど問いは尽きませんが、おそらくおおよその人々はこれらを物語とはみなさないでしょう。では物語を物語足らしめているものはなにか?これに問いをつなげていきたいと思います。

さて、先程列挙した例はおおよその人々は物語とみなさないものの例でした。物語にあって、数学書六法全書、辞書、例文集などなどの「意味が通る」ものたちの集まりでありつつ物語にならないものにないものはなんでしょうか?

『意図』はどうか?これはそぐわなそうです。先程の例4つにもそれぞれ意図が眠っている、いってしまえば「利用目的にそぐうように」「意図的に」編集ないしは執筆されています。ですから物語に固有なものではないように思えます。

『語り手の有無』はどうか?これは当てはまりそうに思います。先に列挙した4例に限って言えばこれらには「語り手」と呼ばれるものは登場しなさそうです。

では『語り手の有無』だけが物語に固有な条件なのでしょうか?他にも探せばもっとあるかもしれません。

『筋があるかどうか』も視野に入れてみましょう。物語では筋は欠かせません。でも、数学書には「この知識や定理や命題や証明を書き記す」という「筋」が存在しています。では数学書も物語?だんだん境界があやふやになりつつありますね。

 

以上の考察は中途半端なものですが、物語を構成するには単なる「意味が通る」ものたちの集まりだけではないものも必要なことが明かされてきました。

それは「筋」かもしれないし「語り手の有無」かもしれない。

物語は伝えられることを役目に負っていて、それらは全てが読まれることを想定しています。

そこから考えると『聞き手の有無』も勘定に入る可能性が出てきました。聞き手とはここでは読者とは異なるものです。私が考える聞き手とは、いわゆる役割であり、読者がその役割を演じることで達成される概念だと思っています。

聞き手は物語に接して感情を揺さぶられる。これはある意味物語特有と言えそうです。もちろん数学書で感情を揺さぶられないではないですが、それは数学書の意図したものとは違いそうです。数学書を物語と捉える向きの方には申し訳ないですが……。

ここまでをまとめると、どうやら物語は「語り手と聞き手」の存在が支配しているように思えてなりません。

物語とは「意味が通るものたちの集まり」であって「筋が存在し」て「語り手が聞き手に語りかけ、聞き手はそれに揺さぶられる」ものだと結論しても良さそうです。

 

無論、私が考える以上に精緻な物語論を展開している人もいらっしゃるでしょうが、今日はここまでが私の限界のようです。みなさんありがとうございました。また書く日まで。

空を飛べる気がしていたあの頃の私たち

突然だが、私の記憶が断片ながらに戻ってきた。どうやら記憶を取り戻しても精神の安寧に差し支えがなくなってきたのかもしれない。いい傾向だと思う。それでも解離は続いたままだが。それどころか、何人かきょうだいが増えているが。もう全く感知できなかった。ニューカマーはどうやら例に漏れずTwitterからの由来らしい。パターン化できてくるので最早「またか」という呆れというか感心というかを隠せない。

それはそれとして、先月比でだんだん調子が悪くなってきた。腰が痛くて集中力が10%逓減している。それに精神も連日のニュースで疲弊してしまい、インターネットに出張るのすら億劫になっている。ひとたびネットに漕ぎ出せば、陰謀だの、悲嘆だの、憤怒だの、不謹慎だの、いろいろな私にとっての精神毒素が飛び交っていてとても浮遊している気になれない。文字に起こされた情報に敏感になっている私にとっては、これは何倍にも増幅されて、私に傷をつける。それはとても我慢ならない。

東京が、日本が、世界が、ネットが安全だなんて迷妄を信じ切れる、言ってしまえば楽観型の人間が恨めしくもあり羨ましくもある。そんな愚痴を垂れても、どうしようもないことだが。

私にとっては、世界ですら私が私であることすら保証され得ない不信空間の元であり、そのような世界に暮らす人間たちは、どんな危害を私にもたらすかわからない不安定黒箱であり、下手すれば凶器になる。命こそ失わないかもしれないが、痛いものは痛い。

現実と妄想と幻覚と虚構の4つの境目が曖昧になって、外部刺激によるものか、自発的な感傷なのかの区別がどうやらつかない。思い出が突如飛来してきたかのように感じられるかもしれないし、外部からの干渉が自発的な思考によるものと感じられるかもしれない。これは境界が非常に曖昧になっている危険な状態であると言い切れる。しかしながら私はそれを間接的に見ているだけであって、どうやら実感は「全てが私であって、全てが私でない」らしい。困ったものである。

飛来してきた思い出

物心がついてしばらくして、親の手を少しずつ離れて、学校という人間関係の檻に初めて閉じ込められた。あの頃校舎の中から見上げた空はとても青く、ここから離れられたらいかに自由かと夢見ていた日々。学校に行かなくていい大人たちが羨ましくてたまらなかった。

意味を見出せない団体行動だの、分かりきっている問題を課される課題だの、このようなことをやって役に立つのか?他の連中にとっては面白いのか?などなどあさっての方向に疑問を飛ばしては教師に叱られていた。いじめもあり、行く意味を見出せなくなっていた学校。大人になってから「かけ算なんて順番なんかどうでもいいじゃないか」と言ったらタコ殴りに遭った悲しい日の思い出。大体あの手の「算数警察」なんてのは、私たちみたいな義務教育のはみ出し者を救う気なんかさらさら無く、教師のヘボさやダメさ加減を論って一丁噛みして偉ぶってるだけのニワカものにすぎない。数学のプロフェッショナルなんかはああいう連中に洟もひっかけない。くだらないし、本物の数学に向かう方が数学者にとって何倍も有益で楽しいからだ。

今日みたいにじめっとして張り付くような暑さが脳髄を焼いていたあの頃の真っ昼間。

私は、いや私たちは、学校に行けなくなった。

近所を徘徊しては人気のない公園や廃墟に入り浸って暑さをしのいで、蚊に刺されながら、陽が落ちるのをひたすらに待った。

蝉が鳴いていた。じわじわ、みんみん。暑さを増幅されるようで嫌な気もしていたが、あの空間に私たちひとりだけでないことを証明してくれるようでもあって心強くもあった。自然は厳然とそこにあり、私たちがどうあろうと、そのまま物理法則という絶対的なものに従いながら、ゆったりと、しかし確実に全てを押し流していく。私たちもいずれ死ぬ。死ぬのは怖いが、必定なるものである。

宇宙が散らばってまた一つに戻った頃、私たちは夕闇にぽつんと残されていた。蝉の鳴き声がひぐらしに変わる頃、私たちはハッと気がついた。「学校をサボった」と。

親は怒らないだろうが、翌日以降の教師たちの吊り上がった目が脳裏に浮かぶ。何をしていただの、どうして来なかっただの。どうせ来たって私たちの成績をぶっかいて他の生徒の点数に充てるだのして、そうした不正を働いて、私たちを足蹴にするだけなのに、どうして学校に行きたいと思うと思うのだろうか。誰も解けなかった数学の問題を解いただけで非難され、私たちの成績にマイナスをこれでもかと付け加え、逆贔屓にしていたくせに。それで学校に来い、などとよく言えたものだ。

限界だ、と思った。

中1の夏、私たちはどうやらここで「分裂」したらしい。性自認が男の組と女の組に分たれた。思春期の頃の私たちは、ただでさえ不安定な精神を、更なる荒波が荒ぶカオスにぶん投げられた。

やがて月日は過ぎ行き、私たちは大学学部を卒業するに至った。

そうして得られた「学校」という枠組みの外に居てもなお、不自由な、巻き付けられたしがらみは、はずれそうにないようだ。

私たちは「『青くない』と嘆く真紅」であり「『空を飛べない』と嘆く魚」なのだった。

 

私たちは、空を飛べると思っていた。