ちょくげノート

日々のことを綴ろうと思っています。はてなダイアリーが終了してしまったのではてなブログに全記事移行しました。

物語を構成するのは単に文字や言葉だけなのか

ブログなのでお出しする内容は結構吟味したりするものですけど、本来ここはノートだったり日記だったり備忘録だったりするのでその制約を一旦なかったことにしてポエムだのなんだのを書いてみることにしました。私は言語学をやってますが、皆さんに比してその知識も技術もしょっぱいものなので、考察も甘いかもしれません、という予防線を張っておきます。

物語の構成要素は言うまでもなく言語ですが、そのさらに分解したものを見てみると言葉や文字になります。ですから物語の「原子」は言葉や文字となるわけです。

しかしそれらがただ羅列されただけでは言葉のサラダになってしまいますね。ですからそこをつなぐものがきっと何かあるはずです。ルール、規則。文法がこれに値するように思えますが、文法は言葉の決まり(とは限らないこともありますがここではそういうことでひとつ)。物語を構成するものとして定めて良いものでしょうか?

非文法的、つまり定められた文法に反するような文は非文と呼ばれますが、これだって物語を構成しても良いはずです。というか、私のブログ含めて日本語の文章と呼ばれる代物は文法をほぼ意識しておらず、頻繁に非文のようなものを生み出しているはずです。だとすると、文法は必ずしも必須というわけではなさそうです。

とは言え、完全に意味が通らない文は物語の部品としては機能しなさそうです。では「意味が通る」とはなんでしょう?これはかなり難しい問題のようにも思えます。

我々が言語を解するのは、常に「意味が通る」とされてきた発話にさらされてきたからにほかならないと思うのです。つまりは「意味が通る」とされる発話、記述の内的蓄積がモノを言うのです。その蓄積から「意味が通る」という解が導き出され、そしてまた我々は発話をするわけです。以降その積み重ねです。

ではなぜ時代によって言語は変容してきたのでしょう?平安時代に話されていた言語と、現代日本で話されている言語とでは、なぜこんなにも違いがあるのでしょう?

これは私の霊感ですが(そもそもこの記事はポエムなので学術的な考察はぶん投げる)言語はそれを話す主体である人間たちの個体それぞれの中で用いられると共に、他個体との意思疎通にも用いられます。私は個体間の意思疎通自体はともかくとして、この「自分の中だけの言語運用」に個体差があると感じていて、その僅かな違いが意思疎通を介して伝播していくのではないでしょうか。これが言語変容の一端を担っている雰囲気はありそうです。

話はだいぶ逸れました。物語の役割の面から考えてみても良さそうです。

物語とは「人に読まれるもの」の一つです。ですから、自分のためだけに書かれた物語もまた自分に読まれることを想定しており、その意味で「誰にも読まれない物語」というものは定義的にありえないわけです。つまり物語は言語の表現の表出であるとともに、人間他個体へもたらされる「意味が通る」記述の担い手です。この記事も物語の一種で、みなさんになにか感情を伝えたりしているわけです。より正確には感情が惹起される原因を蒔いているわけです。

そういった物語の性質を考えるに、物語の構成要素は先程述べた「意味が通る」ものたちの最小要素と言えそうです。ここで合流しましたね。さて「意味が通る」ものたちの集まりは果たして物語たりうるか?という問いが立ちそうです。では数学書は「意味が通る」ものたちの並びだが、物語を書いたものか?六法全書は「意味が通る」ものたちの列挙だが、物語を書いたものか?辞書は?例文集は?などなど問いは尽きませんが、おそらくおおよその人々はこれらを物語とはみなさないでしょう。では物語を物語足らしめているものはなにか?これに問いをつなげていきたいと思います。

さて、先程列挙した例はおおよその人々は物語とみなさないものの例でした。物語にあって、数学書六法全書、辞書、例文集などなどの「意味が通る」ものたちの集まりでありつつ物語にならないものにないものはなんでしょうか?

『意図』はどうか?これはそぐわなそうです。先程の例4つにもそれぞれ意図が眠っている、いってしまえば「利用目的にそぐうように」「意図的に」編集ないしは執筆されています。ですから物語に固有なものではないように思えます。

『語り手の有無』はどうか?これは当てはまりそうに思います。先に列挙した4例に限って言えばこれらには「語り手」と呼ばれるものは登場しなさそうです。

では『語り手の有無』だけが物語に固有な条件なのでしょうか?他にも探せばもっとあるかもしれません。

『筋があるかどうか』も視野に入れてみましょう。物語では筋は欠かせません。でも、数学書には「この知識や定理や命題や証明を書き記す」という「筋」が存在しています。では数学書も物語?だんだん境界があやふやになりつつありますね。

 

以上の考察は中途半端なものですが、物語を構成するには単なる「意味が通る」ものたちの集まりだけではないものも必要なことが明かされてきました。

それは「筋」かもしれないし「語り手の有無」かもしれない。

物語は伝えられることを役目に負っていて、それらは全てが読まれることを想定しています。

そこから考えると『聞き手の有無』も勘定に入る可能性が出てきました。聞き手とはここでは読者とは異なるものです。私が考える聞き手とは、いわゆる役割であり、読者がその役割を演じることで達成される概念だと思っています。

聞き手は物語に接して感情を揺さぶられる。これはある意味物語特有と言えそうです。もちろん数学書で感情を揺さぶられないではないですが、それは数学書の意図したものとは違いそうです。数学書を物語と捉える向きの方には申し訳ないですが……。

ここまでをまとめると、どうやら物語は「語り手と聞き手」の存在が支配しているように思えてなりません。

物語とは「意味が通るものたちの集まり」であって「筋が存在し」て「語り手が聞き手に語りかけ、聞き手はそれに揺さぶられる」ものだと結論しても良さそうです。

 

無論、私が考える以上に精緻な物語論を展開している人もいらっしゃるでしょうが、今日はここまでが私の限界のようです。みなさんありがとうございました。また書く日まで。