ちょくげノート

日々のことを綴ろうと思っています。はてなダイアリーが終了してしまったのではてなブログに全記事移行しました。

ショッキングな出来事に対する防衛術

最近訃報に接した。二人もだ。仲良くしていただけに喪失感が尋常でない。
二人のことの詳細は省くが、学生時代から懇意にしてもらっていた二人だったから、思い入れも悲しみもひとしおのものがあった。
今では去来する思い出に浸って、傷つきを癒している。
でも立ち止まってばかりでもいられない。私はなんとかして前を向き、日々のなすことをしなければならない。
皆さんにも多かれ少なかれ大なり小なり悲しい出来事はあったと思う。
これから綴ることはその悲しい出来事があまりに甚大な時、どうすればいいかを綴ったものである。
私個人が編み出したものだから、皆さんに適用できるかはわからない。
でも、深い悲しみの底にいる時、この記事が少しでも寄り添えるようになるものになることを願うばかりである。

甚大な悲しみに直面した時

心が受け入れきれないため、何かしらの防御反応が表出することがある。例えば、涙が流れる、茫然自失となる、など。
この時は心に余裕がないので、悲しみに立ち向かうことは基本できない
まずは悲しみを自覚し、その反応がおさまるまで待つしかない。
涙は流せるだけ流したらいいし、何もできないなら何もできないままでいい。
必要なのはとにかく自分の素直な心の反応に促されるままに流されることである。
「今は自分は悲しいんだ」「今の自分はつらいんだ」と自覚するのが大事である。
無理して「まだ反応がないから大丈夫」と思ってはならない。ふとした隙に、堤が蟻の穴をきっかけに決壊するように、反応が溢れてくることもある。
悲しみに直面したとき、そのとき、あなたの認識ではもう「悲しい」のであるから。

時間が経ったとき

悲しみは薄れずとも時は経つ。でも悲しみに触れ続けることによりその悲しみに少し慣れることがある。
その時には理性が働くようにもなる。その時に今後の方針をどうしていくか、将来に目を向けてみると良い。
具体的ケースでは「彼は死んだ。でも私は生きている。そうした時、私はどうすればいいか」と考える。
考えるのはまだつらいかもしれない。でも時は待ってくれない。癒しの時間を欲するあまりに、悲しみにだけ目を向けていては、人生を棒に振ってしまう可能性すらだってあるのだから。
これは残酷な宣言かもしれない。しかし人生はこれまた悲しくも有限だ。その有限の時間を、悲しみだけに染めてしまっては失った人はおろか、自分が救われない。
悲しみのあまりに理性が働かないなら、まだしばらく時間を置く必要があるだろう。

悲しみが少しでも薄れた時

悲しみは決して忘れられるものではない。でも、多くの(またはさらに途方もない)時間の果てにはその悲しみが新鮮なものでなくなるかもしれない。
その時に理性を働かせる出番がやってくる。本格的に前を向くフェイズである。
方針としては「理性でどのような将来設計を立てるか」が鍵になる。
理性で方針を立てて心をそれに追随させるという荒療治にも見えるこのやり方が、最も近道だと私は考える。
具体的には「仕事をしなくちゃいけない」「学業に邁進しなきゃいけない」というせっつきたてられる形で現実に引き戻されることが多いと思う。
その時はその要求に従ってやることをやるといい。理性で将来設計を立てられなかったら、まずは周りの社会的要求に従うのが何も考えなくて楽な場合もある。

悲しみを「置いておく」

悲しみを理性で押しとどめろ、とは書いていないことを今ここで確認されたい。
悲しみには素直に従って良いのである
悲しみに十分な時間付き合ったら、今度はその悲しみと一旦決別する必要がある。
何かのふとした拍子に思い出すかもしれないが、それはそれでいい。
「あの悲しい出来事があった」と思い出せるようになったら、それは決別である。

以上の事柄が、各位の悲しみや傷つきに少しでも癒しを与えられたら幸いである。
あなたの人生はあなたのものだ。幸の多からんことを願って、筆をおく。