ちょくげノート

日々のことを綴ろうと思っています。はてなダイアリーが終了してしまったのではてなブログに全記事移行しました。

空を飛べる気がしていたあの頃の私たち

突然だが、私の記憶が断片ながらに戻ってきた。どうやら記憶を取り戻しても精神の安寧に差し支えがなくなってきたのかもしれない。いい傾向だと思う。それでも解離は続いたままだが。それどころか、何人かきょうだいが増えているが。もう全く感知できなかった。ニューカマーはどうやら例に漏れずTwitterからの由来らしい。パターン化できてくるので最早「またか」という呆れというか感心というかを隠せない。

それはそれとして、先月比でだんだん調子が悪くなってきた。腰が痛くて集中力が10%逓減している。それに精神も連日のニュースで疲弊してしまい、インターネットに出張るのすら億劫になっている。ひとたびネットに漕ぎ出せば、陰謀だの、悲嘆だの、憤怒だの、不謹慎だの、いろいろな私にとっての精神毒素が飛び交っていてとても浮遊している気になれない。文字に起こされた情報に敏感になっている私にとっては、これは何倍にも増幅されて、私に傷をつける。それはとても我慢ならない。

東京が、日本が、世界が、ネットが安全だなんて迷妄を信じ切れる、言ってしまえば楽観型の人間が恨めしくもあり羨ましくもある。そんな愚痴を垂れても、どうしようもないことだが。

私にとっては、世界ですら私が私であることすら保証され得ない不信空間の元であり、そのような世界に暮らす人間たちは、どんな危害を私にもたらすかわからない不安定黒箱であり、下手すれば凶器になる。命こそ失わないかもしれないが、痛いものは痛い。

現実と妄想と幻覚と虚構の4つの境目が曖昧になって、外部刺激によるものか、自発的な感傷なのかの区別がどうやらつかない。思い出が突如飛来してきたかのように感じられるかもしれないし、外部からの干渉が自発的な思考によるものと感じられるかもしれない。これは境界が非常に曖昧になっている危険な状態であると言い切れる。しかしながら私はそれを間接的に見ているだけであって、どうやら実感は「全てが私であって、全てが私でない」らしい。困ったものである。

飛来してきた思い出

物心がついてしばらくして、親の手を少しずつ離れて、学校という人間関係の檻に初めて閉じ込められた。あの頃校舎の中から見上げた空はとても青く、ここから離れられたらいかに自由かと夢見ていた日々。学校に行かなくていい大人たちが羨ましくてたまらなかった。

意味を見出せない団体行動だの、分かりきっている問題を課される課題だの、このようなことをやって役に立つのか?他の連中にとっては面白いのか?などなどあさっての方向に疑問を飛ばしては教師に叱られていた。いじめもあり、行く意味を見出せなくなっていた学校。大人になってから「かけ算なんて順番なんかどうでもいいじゃないか」と言ったらタコ殴りに遭った悲しい日の思い出。大体あの手の「算数警察」なんてのは、私たちみたいな義務教育のはみ出し者を救う気なんかさらさら無く、教師のヘボさやダメさ加減を論って一丁噛みして偉ぶってるだけのニワカものにすぎない。数学のプロフェッショナルなんかはああいう連中に洟もひっかけない。くだらないし、本物の数学に向かう方が数学者にとって何倍も有益で楽しいからだ。

今日みたいにじめっとして張り付くような暑さが脳髄を焼いていたあの頃の真っ昼間。

私は、いや私たちは、学校に行けなくなった。

近所を徘徊しては人気のない公園や廃墟に入り浸って暑さをしのいで、蚊に刺されながら、陽が落ちるのをひたすらに待った。

蝉が鳴いていた。じわじわ、みんみん。暑さを増幅されるようで嫌な気もしていたが、あの空間に私たちひとりだけでないことを証明してくれるようでもあって心強くもあった。自然は厳然とそこにあり、私たちがどうあろうと、そのまま物理法則という絶対的なものに従いながら、ゆったりと、しかし確実に全てを押し流していく。私たちもいずれ死ぬ。死ぬのは怖いが、必定なるものである。

宇宙が散らばってまた一つに戻った頃、私たちは夕闇にぽつんと残されていた。蝉の鳴き声がひぐらしに変わる頃、私たちはハッと気がついた。「学校をサボった」と。

親は怒らないだろうが、翌日以降の教師たちの吊り上がった目が脳裏に浮かぶ。何をしていただの、どうして来なかっただの。どうせ来たって私たちの成績をぶっかいて他の生徒の点数に充てるだのして、そうした不正を働いて、私たちを足蹴にするだけなのに、どうして学校に行きたいと思うと思うのだろうか。誰も解けなかった数学の問題を解いただけで非難され、私たちの成績にマイナスをこれでもかと付け加え、逆贔屓にしていたくせに。それで学校に来い、などとよく言えたものだ。

限界だ、と思った。

中1の夏、私たちはどうやらここで「分裂」したらしい。性自認が男の組と女の組に分たれた。思春期の頃の私たちは、ただでさえ不安定な精神を、更なる荒波が荒ぶカオスにぶん投げられた。

やがて月日は過ぎ行き、私たちは大学学部を卒業するに至った。

そうして得られた「学校」という枠組みの外に居てもなお、不自由な、巻き付けられたしがらみは、はずれそうにないようだ。

私たちは「『青くない』と嘆く真紅」であり「『空を飛べない』と嘆く魚」なのだった。

 

私たちは、空を飛べると思っていた。