ちょくげノート

日々のことを綴ろうと思っています。はてなダイアリーが終了してしまったのではてなブログに全記事移行しました。

拝啓この手紙を読んでいるあなたはどこで何をしているのだろう

2月も中盤に差し掛かるとなんとなく「別れ」を意識した季節の予感を感じるようになる。
花粉は飛び出したし日中に厚着をしていると汗をかく日も増えた気がする。
「別れ」と呼ぶにはいささか早いが、かと言ってもう進路を決めた人々にはその2文字は常にチラついていることだろう。
かつての仲間とともに過ごした日々を振り返りながら、各位には次なるライフステージに挑んでいってもらいたい。

ガラでもないが手紙を書いておこうと思う。私に宛てたものかもしれないし、次なるライフステージに挑む諸姉諸兄に宛てたものかもしれない。
はたまた、私の後悔を綴って、手紙の体裁にした単なるポエムかもしれない。まぁ、何かしらの役に立つ文章になっていたらいいなと思う次第である。

物事は「諦め」の連続である

我々人間、生物は死を定められた生き物である。その死はいつやってくるかは分からないが確実にやってくるものである。
そんな中でみんなはきっと「何かやりたいこと」を見つけたのだと思う。そのことについては、寿ぐべきことだ。
しかし残念なことに人生は有限で、脳も有限である。何もかもを完璧にこなし完璧に身につけることなどは、不可能なのである。
こういった「諦め」というものを、身につけて行ってほしいと切に願う。

勘違いしないでほしいのは「やりたいことを見つけたけど才能がないから諦める」といったネガティブな方向の諦めではなくて「これをやるから他は諦めよう」というポジティブな諦めである。
人間誰しも「限界」はある。その限界は果たして「やりたいこと」から君を遠ざける邪魔者だろうか?そうとは限らないこともある。
「限界」を見つけたらそこからは右にも左にも道を変えることが出来る。こういうふうに「諦め」の価値観をアップデートして行ってほしいわけだ。
「私にはこれは出来なかった」という諦めももちろん存在する。けれどもそれは「他の道を探す契機」にもつながることを意識して生き続けてほしい。
何もかもがうまくいくことは稀有だ。そんな中でうまく行かなかったことや過ぎ去ったことに固執して生きていては勿体ない。
今できること、今やりたいことを基準に、人生を建てていってほしい。

この世の中、厳しいし、変動も多い中で確固たる自分を立てるのも必死な思いな人も多いだろう。
でもどうか、周りに流されず、周りに惑わされず、強い力で自分を建てて行ってほしいと思う。
取捨選択の上で「諦め」て、本当に自分の欲しいものを手に入れてほしい。そう願って止まない。

後悔は先に立たないが役に立つこともある

「あのときああすればよかった」という思いを抱くことは、人並みの人生を送っていれば誰しもが直面するネガティブな感情現象だ。
上でも述べた通り、これは固執するだけ無駄であることが多い。後悔は基本的に過去向きの感情で、過去は変えることは出来ないからだ。
だからといって「後悔のないように生きろ!」というのは土台無理な話である。人は何したったって後悔するし、それを引きずるのもまた人生の一幕にあり得るシーンだ。

後悔は失敗から生えることが多い。その失敗は、成功に至る道筋の中で現れるものだ。
だから「後悔をしている」と気づいたら、それに付随する失敗を観察して、同じ過ちを繰り返さないための指針に出来る。
私自身も後悔をなるべく少なくしているが、それでも人生で致命的な失敗を踏んだことは数えきれない。
でも今こうやって元気に生きているのは、他でもなく「後悔を役に立てようとしている」からにほかならない。

人生では全く同じシチュエーションというものはめったに降り注がない。大抵自分の年齢が変わってるし、場所も変わっているからだ。
それでも「後悔を役に立てる」のは可能だ。
似たようなシチュエーションのときに、かつて自分が踏んだ罠を意図的に避けられるか。これもそうだし、自分が踏んだ罠を再度踏んだときの心持ちを予覚できる。
後悔で落ち込むときには、ほぼ必ずと言っていいほど自分の選択を否定する感情が芽生えるものだ。その感情に決して飲まれず、これから過ごす時間を悲しみに染めてはならない。
反省会は、直ちに終わらせるべきなのである。

おわりに

私に宛てたのか誰に宛てたのか、ふんわりやんわりぼやけてしまったが、書けることは書けたと思っている。
考察が足りなくて刺さる文章を書けなかったかもしれないが刺してもしょうがないのでこんな感じで誰かの役に立てたらいいなと思っている。
別れの季節のちょっと手前に、何かしらのアドバイスが授けられたら光栄だ。