ちょくげノート

日々のことを綴ろうと思っています。はてなダイアリーが終了してしまったのではてなブログに全記事移行しました。

目覚めがやばい

結局日記に起こすことは覚えてる(っていうか家のいたるところに「はてなダイアリーEvernoteに日記を書け」と書いた張り紙がしてあるので思い出す)ので残っている証拠的には弱いのだが、昨日の未明はものすごい苦痛にのたうち回っていたらしかった。体は全く覚えていない。
そののたうちまわりの影響か知らんが、昨日はものすごく筋肉痛が激しく、歩くたびに痛んだ。
脳の調子が良く、集中力を欠く割に記憶力が良かった。これはPEAKの話。
出来の良さ悪さはさておき、精神さえ悪くなければ昨日はものすごくいい1日になり得たかもしれないと思うと勿体無く思う。
精神と脳の調子のバランスが最高に保たれるとQoLが上がるのだと思う。久しくその状態を味わっていないため、思い出すことができない。

昨日はおととい行ったらしい面談に再度赴いてしまい、恥をかいた。
学費は7分の1ほどになり、図書館も利用したければ利用していいとのことなので、ありがたく思っている。
何冊かのASL本を仕入れたいと思っているので、来年度も10冊注文しよう。
未来の後輩が活用してくれるだろうことを期待して。結局自分でも買っちゃうからなぁ。

言語はイスクイルをやった。構成要素語の繰り返しや行為、現象のまとまりを表現するらしい形態を見たが、何遍見ても「ロジバンの法制詞やムードの方が構成的で分かりも良い気がする」と思うばかりだった。実際それを語彙の中に押し込んでいるので、やっていることはそんな大差ないだろうと思う。
そういや最近ロジバンも久しく触れていない。頭を使って頭に何かを入れるという行為をやっていない気がする。論理学も中途半端だ。

イスクイルは子音と母音の並びによって語根、語幹を作り、その語幹や語根に意味がそれぞれ定められている。

  • p^h-という語根があるが、これで植物、という意味を持っている。

これに例えば語尾alをつけてp^halとすると「一本の木」という意味になる。
くっつける母音あるいは母音と子音の組み合わせはどのような形態をとりたいかによって一つづつ緻密に定められており、語根によって変わるということはない。これのせいで発音するのに大変厳しい音素列が生まれることがある。
イスクイルの音は豊富なので、舌を噛んだり喉が詰まったりすること必至だ。頭も舌もこんがらがる。音が多すぎる。
しかし裏を返せばどのような音素列がどのようなムード(ここでは視点や数性などを含む概念)を表現するのかが頭に入ってさえいれば、聞いただけでどのようなことを説明したいのかスッとわかる(のだと思う)ので、イスクイルの便利さはここにあるのだろう。聞き取れるかどうかはしらん。lとllとか聞き分けられないのに。
単数だの典型的だの繰り返しだのなんだのと複合させるとその語尾の種類は1728種類に及ぶ。
やべえ。多すぎる。この中から数種類を使いまわして「いつもの単語」みたいに使う未来が見える。筆者おきまりの単語、みたいな。
1728種類全部意味が違うので、1728通りの異なる表現が可能なわけだ。一つの語根につき1728。ひぇ。
サンスクリット語かよ。いやあっちの方がもっと多いんだっけか。いやー、活用怖い。ロジバンに逃げよ。

全般的にイスクイルは語根にどのような母音がくっつくかによって語根の意味を選択し、表現するというスタイルだ。
くっつけ方をスロットと表現し、そのスロットにあらかじめ規定された音素を挿れることで、果たして出来上がった語彙が内容語なのか機能語なのかを一意に見分けるという。ちなみにformativeとadjunctionという。
formativeは日本語で言うところの名詞や動詞に相当し、adjunctionは助詞助動詞形容詞形容動詞などに相当するようだ。
不思議なことに、内容語機能語という括りではないらしい。まだ学習してないので滅多なこと言ってはいけない気がするのでここで止める。
まだまだイスクイルは学び始めて日が浅いため、学んだ事実のこと以外に述べるイスクイルの事柄はポエムになってしまうが、それを断った上で感想を述べると、どうも文や発話の中における語彙の意味は文脈よりも語彙の成立そのものが強く支配している感が否めない。
語彙とは、自然言語でもそうだが、文の中で使われることによって微妙に意味を変えたりして、あまり限定的な意味で用いられることは少ないようなイメージがある。この「イメージ」だって、此処の文脈では『想像』『バイアス』『偏見』『個人の見解』と行った意味合いだが、イメージそのものには『画像』とかの意味も含まれている。使われる場所によって語彙の意味はかわってくるのだ。
まあ、それは取りも直さず私がいかにテキトーに言葉を操っているか如実に現れているというだけの気もするが、まあ大方の人類はそんな言語運用していると信じている。みんな雑に言葉使ってる。
辞書的な意味を知らなくてもなんとなくで通じてしまうんだから自然言語は便利。
で、怖い。どんなにしっかりした言説だって、言葉である以上はどこかで解れが出るんだろうな。完全に厳密な言明なんてものはこの世に存在しないのかもしれない。うーん、論理の飛躍。

だいぶ脱線した。例えばロジバンなんかでも辞書にPSという穴あき文の形で意味がかっきり定められているが、結局はその意味も辞書的なだけで、意味が使用を妨げるということはない。なんだかんだ比喩的に用いられることもあるし、自然言語ほどではないにしろ、イスクイルよりかは意味の支配を文脈に譲っている印象がある。いや、zo'eに引きづられすぎかな。
今日はここまで。