ちょくげノート

日々のことを綴ろうと思っています。はてなダイアリーが終了してしまったのではてなブログに全記事移行しました。

特定のこだわりを持って固定的かつ常同的な意思疎通の方法をする私

最近の世の中では「発達障害」という言葉がたくさん聞かれるようになった。

曰く、職場にいる、同級生にその疑惑をもたれる子がいる、などだ。

現行の医療用語では発達障害ではなく「神経発達症」と呼ばれるようだ。

私は医療関係者ではないので以下の文では旧称であるASDADHDなどを用いていく。

さて、私は診断によると最重度のADHDと中重程度のASDであるらしい。らしい、というのは診断書で見ただけで実際に言い渡されたのはADHDの方だからである。

うろ覚えで申し訳ないが、診断書には「特定のこだわりを持って固定的かつ常同的な意思疎通の方法を持つ」という文言が書いてあり、そこに丸が付けられていた。

ブログを見てわかる通りに、私の文章力はさほどではなく、加えて話題も豊富ではないのが見て取れるだろう。固定的な意思疎通の方法を持つ、というのはそこにも表れているのだと思う。

このような傾向をここではASD傾向と呼ぼう。

自然な問いが浮上する。「ASD傾向を持つ人間は社会生活を営めないのか?」である。

答えはおそらく「部分的にNO」であると考えている。ASD傾向を有する人の中にはコミュニケーションの手段が限られすぎていて、介助なしでは何もできないであろう方も含まれうるからだ。ではそうではない方はどうだろうか?

我々ASD傾向を有する者たちはコミュニケーションの形態に乏しい傾向があり、これが社会生活を営むのに障害となるというケースが多いように見える。無理矢理な比喩で言ってしまえば、進度と難易度が比例しないRPGで初期装備かレア装備しか持っていないような状態だ。そのような状態ではピーキーすぎて中間の難易度に対応できない。

ASD傾向もそういうものだと考えている。皆多かれ少なかれこの傾向を有しているのだとして、どうにかうまくやって合わせて生きていっているのだと思う。

しかし私のように重めのASD傾向を有する者は、社会生活はいささか難易度が高い。会話がワンパターンになってしまうし、同じ話を繰り返したり、別の反応を返すべきところで同じ反応を返してしまったり。要は、対話のバリエーションが乏しいのである。

それが悪いという価値判断は動員したくない。このような会話形態、意思疎通形態でも生き残っていける道はあると言いたいのだ。

ハッカーと云う言葉がある。正しい原義は調べてほしいが「道具一つでなんでもやってのける器用者」と云う意味だったはずだ。これが意味の変遷を経て「計算機科学などに精通する者」と云う意味になった。

ASD傾向を有する者は、その少ない意思疎通の形態を武器に、多彩に対応できるようになれると言いたいのだ。

具体例は思い浮かばないが、このような会話形態であっても、後付けで備え付けられる自分に合った会話の能力というものが備わるのだ。

幸にして私には平均を上回る知能が備わっていた。これを武器にして、どのような対応が相応しいか、考えていけるようになりたい。

誰か曰く、ASD傾向を有する者は「感情の機微に疎い」とする傾向が認められるらしい。

私はそれを肯定せざるを得ない。どのような状況であっても自分が受け取れる情報しか受け取れず、そして自分が推論できる範囲でしか推論できず、そこに潜伏する「発話者の感情」に気づくことがほとんどないのだ。

このようなテストをした。

「これから絵本の一部をバラバラにした絵を並べてもらいます。そこで私がお話のお手本を見せるからそれを参考に別の絵を組み立ててお話を作ってね」というものである。

私は絵から得られる情報は全て拾い集められし、作った話には論理的に整合性を保っていたものであったものの、心理士曰く「登場人物の感情は全く出てこなかったね」と言われた。そうなのである。私には他人の感情を汲み取る能力に乏しく、会話ややりとりやストーリーから登場人物の感情を読み取る能力が低いのである。

これが何度障害になったかわからない。オフ会で水をぶっかけられたり、泣かれたり、怒られたりなど、枚挙にいとまがない。

相手が何を思っているかわからないのである。これは開き直りではなくある種自然なことではあって、なぜならば我々人間の脳は頭蓋にて隔絶されており、それゆえに直接感情のクオリアを伝達する方法がないからである。加えて脳は個体によって発達の傾向や神経細胞のつながりが違っており、もし直接脳同士を接続する手段が開発されたとしても全く違う脳が考えていることは別の脳には解釈不可能である可能性が高い。

御託はここまでにして、私は相手がどう思っているか、そこに思いやりを馳せる能力に乏しい。先述した脳の隔絶を別にしても、いわゆる健常者たちは会話や記述に潜伏する感情を汲み取ることができている。そういう事実を受け止めるに、こういった感情を汲み取る能力は存在して、健常者はどうにかして感情のやり取りをするに至っているのだと考えた。

私が感情を汲み取るにはどうしたらいいか。感情が汲み取れるものだとするのならば、そこにはサインや特徴が含まれているはずである。そのサインと感情を結びつけて結論するのは、私にはいささかハードルが高い。が、やらなくてはならない理由も最近生まれてしまった。

私はどうやら、発話に伴う動機として感情が潜伏することを知らなかった。このような発話がなされるからにはこういう感情が潜伏しているはずだ、という推論を全く働かせてこなかったのである。

ASD傾向を有する者に恋愛を苦手とする者が多くいるのは頷ける話である。恋愛は思うに感情の塊であって、それのやりとりを日常的にしなければならないのは負担となるのは想像できる。

かといって、知り合いのASD傾向を有すると目される者には、恋愛を成就させて結婚まで成した者がいる。この例をみるに、ASD傾向を有する者であっても、恋愛はできるのだと信じられる。実際私にも恋人はいた。

話題は移って、それでは「ASD傾向を有する者は感情を持たないのか?」という問いがなされる。答えは「完全にNO」だ。私にも感情はある。悲しむし、喜ぶし、怒る。そしてそれは「わかりやすい」と他者から言われることが多い。然るに、私には感情があると言える。

幸にして「わかりやすい」私の特徴からして、感情を表現する手段は無意識にも豊富なのだろうと思う。問題は汲み取る側に回るときだ。このとき、私はどのようにして相手の感情を押し測るのか手段を持ち合わせていない。メタ認知が育っていないから、自分がどのような感情を持った時にどんな反応を返すかの観察もできない。

しばらくは、まだまだ苦労が続くだろうと思われる。

思い返してみれば、私は言語を操るのが得意だ。これは私にとって遊びやパズルのようなもので、飽きることがなく書き続けることができる。言語が意味するものを組み合わせて、どのような文章が編み上がるのか、自分で楽しみながら書くことができる。文章作成は「発掘作業だ」とする人もいるが、私は「工作や工業、エンジニアリング、プログラミングに近い」と言うだろう。元手の語彙を武器に組み合わせて、意味が通るようにつながりを考えて、そして文章を書いていく。この営みが愛おしいと思わないことはないのだ。

しかしそこに私の感情を読み取られたことはない。対面では「わかりやすい」私であるのに、文章になると「脳面のよう」と言う感想を幾度となくもらったことがある。これは文章において私が感情表現の技術を学んでこなかったからかもしれない。

でも、幸にして私には感情がある。だから、これから文章に織り交ぜていくようにしていけば、少しでもブログに彩りが出るかな、と思うのである。

文章を書くのが得意と言っておきながら、かなりとっ散らかった話題に終始してしまったが、ここまで読んでいただけて幸いである。これからもよろしくお願いします。