ちょくげノート

日々のことを綴ろうと思っています。はてなダイアリーが終了してしまったのではてなブログに全記事移行しました。

会話することとそれの非対称性

会話は重要なツールである。これがなければ私たちは孤独で、情報を摂取する機会が大幅に失われてしまい、狭窄な世界を過ごすことになってしまう。他個体とのやり取りはそれだけで情報の幅を広げ、摂取する情報を豊かにしうるものである。

ところが、会話はそれ自体で尊いものではなく、非対称的な要素を孕んでいるものでもある。よりよく会話をするために、以下に述べることを心がけてみると、会話がスムーズに行く可能性があるかもしれない。とりわけ、受信に焦点を絞って考えてみた。

 

会話は発信においては自分の引き出しから、つまり、すでに言葉にされた経験のある事象から成り立っている。そこから発信を続けるだけなので、難易度は低いと思われる。

ところが受信はそうではない。新出情報を受信することがあり得て、それは「キャパシティ」と「理解」の最低でも2ステップを経なければ適切に受信することができないのである。これは発信と受信の非対称性である。

「キャパ」について話をしよう。これは文字列の意味通り「受け入れの器」のことである。一旦ここに新出情報、未知の情報を載せることで、今自分が「未知に接している」ことを知るための器である。これは無くてはならないものである。無ければ、会話の一部分を聞き落とし、情報が落ちていくままになる。狭窄の一歩を進んでしまうことになる。

次は「理解」である。これは「キャパ」に載った未知の情報を解きほぐし、自分の言葉で整理する能力のことである。未知の情報を自覚したとして、それに自分の言葉で説明を与えてあげるのである。最初から言葉であることが多いものの、自分の理解のためには自分の言葉で整理しなくてはならない。これも不可欠である。欠けていたら、会話を鵜呑みにし続けるか、聞く耳を持たない人間になってしまうだろう。

発信に対する受信側の非対称性をご理解いただけただろうか。次には、これをどう養うか、身に付けるかを私なりに論じたい。

「キャパ」は身に付けるのが難しい。これは「自覚」だからである。自覚ということは、言葉にする必要がある。「キャパ」を身に付けるのにさらに言葉を要するというのは意外に思えるかもしれないが、何事も自覚に載せるには言葉の力は不可欠なのである。

未知の新出情報が得られたとき、人にもたらされる感情は「わからない」である。この「わからない」に気付いてあげられるかどうかが、「キャパ」の第一歩と言ってもいいかもしれない。「わからない」ものに「わからない」と適切に反応を返せるか。返せないのであれば、それは自覚が足りていないということになる。とりあえず「わからない」ものには素直に「わからない」と受け入れる感情を育てよう。

「わからない」ものは「わからない」。

さて、その「キャパ」が出来上がったら、その次は「理解」だ。理解はキャパと比べて幾分か難易度が低いように私には見える。同じく言葉の力を使うし、しかも直接に使うからだ。

「わからない」となったものに対して「わかる」ようになるためには、自分の語彙をもってして「説明」を付与してやる必要がある。この情報はなんなんだ?この情報は自分の引き出しにおいてどのような位置に付けられるんだ?そのように考えて、自分の言葉で説明が付けられた時、その新出情報は「わかった」となる。もちろん「わからない」ままのこともあろう。それはそれでいい。「わからない」ものにやはり「わからない」と説明をつけているのだから、それはそれでいい。そのまま丁寧に保存して、後日「わかる」ためにきっちり覚えておこう。

 

未知の情報に関しては会話のみにとどまらず、勉強や研究や仕事において頻出するものであろうと思う。そんな時には、このようにして「キャパ」と「理解」の両輪を活用してもらいたい。抽象的な話が続いてうんざりしているだろうが、実践は具体的すぎて綴るのに少し手間がかかる。ここはぐっと堪えて欲しい。

 

以上のように会話に関連して、自覚して言葉にしている人はそう多くはないと思う。そのような人たちが大半だと思う。

あなたが会話に関して何かしら不都合を覚えているときは、以上のことを思い出していただければ、もしかしたら何かの助けになるかもしれない。助けになれるように、私はこのブログを綴っている。