日本のインターネットの匿名性は「なりきり文化」だという話
ちょくげです。最近髭の知り合いで我々に興味を持ってくださっている方がいらして、その方のラジオに招かれては持論を垂れ流すということを一回やったのですが、その際に言われたことで気になったことを一つ。
「ネットの匿名性はある種のなりきり」という話。
話の文脈として、人々は文脈や付帯状況によってペルソナを替えるというものがあった。
彼は「2ちゃんねるの名無しも『名無し』というものになりきって投稿していた」という。
会話や対話のプロトコルからして、基本的に人間は「あなた(聞き手)とわたし(話し手)は意思疎通ができる」という標示が必要な生き物だ。そこで「なりきり」という能力は、このプロトコルを完全にクリアできる。
なるほどと膝を打ったのは言うまでもない。私が考えていた対話のプロトコル概念を彼はうまく言語化してみせた。
これを現実社会の共同体に話を拡大してみる。
我々が抱えている発達特性には「限定的な意思疎通の方法」というものがある。詳しくは調べてほしいが、平たく言えば「同じ方法でしかコミュニケーションが取れない」ということである。
これが「空気を読めない」「人とうまくやっていけない」などの障害の原因になる。
なぜ我々は意思疎通の方法が限定的なのか?
これは社会の空間でその共同体の構成員に「なりきれていない」からではないかと思った。
二次創作文化の「なりきり」はキャラの設定や作品を読み込めば、基本的にキャラクターはそこから動かないので比較的演じやすい傾向にあると思う。
ところが現実社会の共同体は「動く」。これはどういうことかというと、その共同体の構成員はその場その場の刺激に反応して形を変えたり、行動原理を変化させたりするからだ。生身の人間だから当たり前であるが、我々ASD者は、この機微に非常に疎い傾向がある。だから共同体の構成員に「なりきれない」のである。
そこから得られる結果は、もうお察しの通り「言葉が通じない」だの「空気が読めない」だのの共同体の不文律に背いているらしいことを窺わせる反応のオンパレードだ。
ここに対処するのは非常に難しいし、なんなら私自身も全く対処できていない。だから会社やインターネットに篭りがちになって、他者とのコミュニケーションを絶ってしまう。
そしてインターネットの掲示板文化は猛虎弁やねらー用語、淫夢語録で成り立っている共同体が多い。これは私は受け入れられなかったが(そしてその共同体に馴染めなかった)、受け入れさえすればそこの一員になれただろう。
Twitterに居座るようになったのは、その共同体構成員になりきりをしなくても居座っていいとお墨付きを与えられたように感じたからだと思う。「お前はそのままでいい」と。
それでもまだ爪弾きに遭うところは、いまだに多い。疎外感を感じないではいられない。
果たして私がどこかの共同体の一員になれる日は来るんだろうか。
私はどうやら人間だということに最近気づいた。人間は一人では生きていけない。
私を受け入れてくれる共同体がいつか現れる、もしくは見つかることを願う。