ちょくげノート

日々のことを綴ろうと思っています。はてなダイアリーが終了してしまったのではてなブログに全記事移行しました。

ポリアモリーに関連しつつ、二次創作における恋愛関係に対して私が思うことまとめ

私の二次創作にはポリアモリーの考え方が採用されているので書いてみた。まとめと題しておきながらまとまりがつかないのは申し訳ないが耐えて読んでくれると嬉しい。

大体書かれていることといえば
・ポリアモリーを採用するきっかけ
・二次創作における私の恋愛観念(長い)
・ポリアモリーそのものへの雑感

である。以下本文。



最初に。ひとりのヒトがヒトを好きになるのはあり得る。それが単体でなく、複数になることもあり得る。
場合によっては構成員それぞれに対して(分配的)ではなく、その複数の人間が構成する団体(集団的)を好きになることもあり得る。
「一人の人間が複数の人間を愛する」さらに一般化して「複数の人間が複数の人間を愛する」
これを肯定しているのがポリアモリーだというのが私の認識だ。


もともとこの概念に触れるようになったきっかけは、SSでのキャラクターの扱い、とりわけカップリング要素についての、自分が考える問題を回避ないしは合理化しようとしたのがきっかけである。

私の認識する世界において、二次創作における恋愛要素、カップリングものというものは
・一対一的である
・原則として他のキャラクターがその関係に深く入り込むことはない
・「想いを寄せる」形が一方向的である(いわゆる"掛け算順序の問題"笑)

のが普通だった。これはそのように書いている人が多かったからであり、無論読む人の需要の形としても、この要請を満たすものが多いからだ、というように考えている。
読む側も書く側も、この傾向から外れることは少ない、と考えている。

これは、私が欲しているものとは、少し違っていた。
今で思うと特に「一対一的である」点が違和感を覚えた。

一番最初に書かれているとおりに「人間は複数の人間を愛し得る」のである。これは私がそのように考えるから私の認識がそのようになった、とも言えるし、実際の可能性として存在する、とも言える。
そう(無意識に)思っている中で、一対一で、とりわけ『あなたしか見えていないの』などのようなセリフに代表される"二人だけの世界"というものがあまり受け入れられなかった。違和感が大きかったのである。

違和感が大きいがあまりに、私はカップリングものを遠ざけるようになった。加えてその違和感の正体を言語化できていなかったために「カップリング」ジャンルを拒否すれば、違和感が消失すると思ったのだ。
そして遠ざけるあまりに「俺嫁」と呼ばれるジャンルにハマった。
当時所属していた界隈では、俺嫁とカップリングが対立していたために、カップリングへの歪んだ反骨精神の表れとして俺嫁にハマった。
あまり素直な動機ではなかった。


しかも、後述する通りに、この逃避行動は正解ではなかった。「一対一的」からは逃れられていないのである。


俺嫁の主人公である私の分身は、キャラクターに認識され、承認され、好かれ、愛され、一緒になった。
精神的充足感は半端なものではなかった。作るたびに嬉しく、評価されると「やってやった」という気になった。

しかし「一対一的である」ことには変わりはなかった。

ところで私の好きなキャラクターは、私を知っている人ならばご存知の通りに「美国織莉子」である。
でも、彼女一人だけではないのも事実だ。
「呉キリカ」も好きだし「千歳ゆま」も好きだ。
作品を飛び越え、艦これの「由良」ポケモンの「リーフィアR-TYPEの「サンデーストライク」デレマスの「川島瑞樹」「市原仁奈」なども好きである。
向けている感情の実態はきっと違うだろうけど、でも同じ言葉で表せてしまう「好き」なのだ。

だから「一対一的な表現」をしている私自身の俺嫁妄想に、自分で自分に我慢ができなくなった。
常に心の声が「織莉子が好きだって?でもお前、こないだキリカを抱く妄想してたじゃん」と呪うのである。
他のキャラクターを好きになることを「裏切り」と認識していたので、これは苦しかった。
そうしてあっさり「一対一的俺嫁」から「一対多的俺嫁」に切り替えた。


ところで、美国織莉子は呉キリカを不可欠な存在として認識しており、作品「おりこ☆マギカ」内でもそのように描写されている。要は公式がお墨付きを与えるカップルである。(こういう結論の導き方に問題があるとしても今は置いといていただきたい)

さらにここから導かれる事実は
「直毛の認識下に入っている美国織莉子は、間違いなく呉キリカを愛している」という命題である。

自分の世界に
「直毛を愛している美国織莉子」と「呉キリカを愛している美国織莉子」が同時に存在することに気づいたのである。

自分は存在している公式の設定をあまり否定できない。(無視することもある)(場合によりけりだが概ね公式に従う)
デレマス界隈での初期作品など『認識量が足りない』状況下では意図せず設定を否定したこともあったが、そうでもない限りはその設定をできるだけ踏襲する。できるだけ。

さて、呉キリカを好きなだけに、その"好意の矢印"の存在を自分で無視できない。
美国織莉子を好きなだけに、その好意を自分以外に向けさせたくない。

どうしようか。

いやどうにもならない。

こうして俺嫁厨としての直毛は矛盾し、あっさり破綻した。
俺嫁厨として当時自分に課していた
・キャラクターは自分(ここでは直毛)だけしか愛してはならない
・自分は複数のキャラクターを愛してよい
の一番目に反したのである。続けていけない、となった。


こうして早々に俺嫁としてのアイデンティティに破綻を来し、それをうやむやにして言語化せず、忘れるまで放置していたのが最近の話である。

もちろん私に「俺嫁宗派の気質がない」とは言わない。言えない。
好きになったキャラクターには私を好きでいてほしいのは偽らざる感情であるし、それを投影した自作の作品が好きなのもまた本音である。
かといって他人のを読まないわけではないし、他人の妄想が徹底的に合わないわけでもない。ただ、『一番自分の理想に近いか』と言われると、そうでもなかった、までの話である。

話はそれるが、「感情」とこういった「理念」「思想」などはお互いに関連し合いながら変化するものだと思う。


俺嫁として破綻した私が次にたどり着いたのが「カップリング妄想」であった。
前述の通りに、以前所属していた界隈では俺嫁と対立していただけに、そこへの入り込みは困難を極めた。
でも入ってしまうとすんなり書けるし、書いてて楽しいとさえ思うようになった。
何が他の作者と違うのか考えてみた。

さて、ここで浮かんできたのが
・一対一的である
・原則として他のキャラクターがその関係に深く入り込むことはない
・「想いを寄せる」形が一方向的である

という、私の偏見である。
これを自分に適うように変質させてみると
・多対多的である
・他のキャラクターが関係に入り込んでくる
・「想いを寄せる」形が双方向的である
となる。

これを念頭において書いてみた作品が、私のデレマスSSを追っている人にはわかる、いわゆる「わいだん」シリーズであった。
内容は
・あるアイドルが他のアイドルに性欲を含めた恋愛感情を抱いている
・その事実が仲間内(事務所)で暗黙の了解になっている
と言った内容である。ここの他にも陰毛だとか卑猥な話だとか、自分の性癖に合致するような要素が込められているのがわいだんシリーズなのであるが、ポリアモリーに関わってこない点は省略していく。

こうして自分の理想に近い妄想の手段を得た私は、今は無事に二次創作活動を続けて行くことができるようになったのであった。めでたしめでたし。これ以降どうなっていくかは私にもわからない。


さてここからはポリアモリーに対して想像することや私が思うことである。

まず現実のリアルな「直毛」個人としての恋愛への認識は基本的に「他人は他人を如何様にも愛するだろうが、私個人が愛するのは1人が限界であり、その愛する在り方も1つが今のところ限界である」というのが現状である。
ポリアモリーにはなれないと感じた。まず、恋愛感情を抱ける好きな人が今のところ1人しかいないし、それは増える見込みもない。

想像するに、現実の人間が個人として愛することができるキャパシティというものは限界が存在する。
愛することとは何何することである、と言ったような動作面にフォーカスした言い換えが存在しても、人間が行える動作はせいぜい単位時間あたりに1動作だ。やはり限界がある。
そのため、ポリアモリー的概念や思想に賛同してそれを良いものだと主張することはできても私は実践できないし、先の「動作の制約」が人間が有限な存在である以上どうしてもかかってしまうから他人においそれと「ポリアモリーはいいぞ」なんて言えようはずもない。

次に、その実際を想像した上でだが、実践したみた際の問題を考えてみてもポリアモリーは非常に難易度が高い恋愛様式だとわかる。
誤解を恐れずに言うとポリアモリーは「モノアモリー的恋愛感では浮気/不倫に相当する行為が浮気/不倫にならなくなり得る」ものとも言える。この相当行為をここでは便宜上「風見」と呼ぶ。風見鶏がくるくると方向を変える様から取った。
風見行為を行うと、そこで発生する問題というのはモノアモリー制度上の問題ではなく、完全にそのポリアモリー共同体の中での問題となる。これがかなり厳しいのではないかと踏んでいるのだ。

何が起きるだろうか。真っ先一つに考えられるのは「嫉妬」問題だろうと思う。
前日まで仲良くしていた相手が他の相手(場合によれば自分の相手でもあり得る共同体の中の一人)と仲良くしているのを見たり、自分に構ってくれなくなったら、何かしらの良からぬ感情が発生しても不思議はない。
モノアモリー的に制度が整った社会であればこれは社会もしくは思想を同じくする部外者の側から(言い方は不本意だが)罰したり正したりすることができるだろう。
ところがポリアモリーは思想の時点でこの風見行為を肯定しており、風見行為を行う感情を罰することはできないのである。
つまり風見行為をされた側の感情の問題は社会や属するポリアモリー共同体がなんとかしてくれるわけでなく、その感情を発生させた自身に全て責任が帰せられることになる。

これは感情の整理が上手くない人間にとってはかなり負担が大きいものになるのではないかと考える。
世界を構成する一部の人間の中には「自分の中で発生した感情は"自分が発生させた"のだから自分の中で全て片付ける」という異常に合理的に感情を扱う者がいる。
そんな人間でなければ、このような思想の下での恋愛は厳しいだろうと思う。

他にも「共同体を同じくする者同士で合う合わないの問題」や「愛情の偏在」「性行為の際の問題」「社会的に関係を認めてもらう実際上の問題」「何かしらの尺度が意図せず取り込まれ、不本意な順位が付いてしまう問題」などなど考えつくのはいくらでもあるが、大きな問題は感情の問題ではないかと考える。

だからこそ、ポリアモリーの思想を持って実践できる人間はすごいな、と思うのである。

そんなポリアモリーの苦難や困難をできるだけ理解して、敬意を込めながら創作に取り込めたらいいな、と考えるのであった。