ちょくげノート

日々のことを綴ろうと思っています。はてなダイアリーが終了してしまったのではてなブログに全記事移行しました。

今朝は本当に危なかった

ちょくげです。久々のこのちょくげ日記ですが、あんまり書くことがなかったので放置してしまっていました。
学生時代はなるべく書くようにしていたのですが、書き溜めているうちに公開時期を逸してしまい、スタックに山と残されています。私とはそういう人間なのかもしれない。

話題がランダムウォーク軌道を描く前に単刀直入に。今朝私はホームに飛び降りる寸前まで行きました。これを書いてるってことは生きているってことなのでひとまずは大丈夫です。
安心して欲しいんですがこれを書いているのは第一人格である毛の私の言葉です。生きてます。大丈夫です。

さて死にかけたわけですが、理由としてはそんなに深いものではありません。躁鬱の鬱に入りつつあったと自分では分析しています。その下降曲線をどうにか平坦な方面へとソフトランディングさせることができましたが、これからはどうなるかちょっと自信がありません。

疲労のため思考が鈍っているのでいくつか先に箇条書きで書こうと思います。
・今朝とても辛かったこと
・マナーをはじめとする形式儀礼がいかに人間関係の潤滑になるか
・本音を何かしらの形で誰かに知ってもらうこと

まずは辛かったことですね。これにはちょっと遡る必要があるのですが、私はこう見えて発達障害で、2次障害で色々なものをくっつけてしまった存在です。その二次障害が悪さしたのが今回のことだと思っています。

会社は遠いことさえ除けばとてもいい環境で、同期が互いに協力しあって相互に補い合っているのが観察してわかります。組織においてこういう状態は好ましいのだろうと考えます。
そんな状態で私はできるだけ能力を発揮しつつ、誰かのわからないことがあれば私のできる限りで協力する、そういう立ち位置に今はいます。この状態に文句があるわけではありません。

でもつらかった。会社がいい状態なのには関係なく、入社したその日から辛さが徐々に積み重なってきており、これが寝ても気分発散をしても取り除けない状態にありました。

なぜつらいのか。今の状態で言語化すると焦点がブレそうですが、構わず言葉にしてしまうと

・同期(みなし健常者)が眩しい
・先輩社員が優しい
・そんな恵まれた環境に感謝できない自分が辛い
・自分の時間が確保できない

です。最後は社会人の宿命なので明示しつつ省略します。

一番最初の事項が一番厳しい。健常者が健常者しているのがつらい。そういう状態です。これはまだうまく言語化できていないのですが、健常者が自分にできないようなことをやっているのをみるとチクリと何かが刺さります。それが蓄積して、辛くなっています。
二番目も同じですね。先輩、主に40代以降のおじさまがたですが、自分はこうはなれないだろうなと思うと上から蓋をされたようになります。
三番目は、そんなありがたい、価値がある環境に属しておきながらそれを十分に享受できておらず、感謝もできていない自分がしんどいです。

そんなつらさは先週や先々週にもフッと目の前に現れて、私を満員電車から飛び出させようとしました。新小岩駅は死への誘惑が強くてすごい。

また、春の陽気ってすごく死にたくなるんですよね。夏への嫌悪感を思い起こさせるだけでなく、何をやっても許されそうなあの開放的な雰囲気のどさくさに紛れて「死んでも誰も咎めないのではないか」という気持ちになるのです。

そうして先日のあのつぶやきに相成ったわけでした。死なずにすみましたけどね。

総合すると、つらさがあり、ある程度言語化されてて、でもなおその解決策を見いだせていないということでした。明日、夜に同期でピザを食べるけど、それを楽しめなかったら本当に終わりだと思ってる。楽しみたい。楽しめたとしても辛さは消えないだろうけど。

はーつらい。

続いて話題変わりましてマナーです。
先日までマナー研修をやっていたのですが、それをこなすにつけ、これが大切なものだというのが自分なりにわかってきました。

私は持論として、人間の持つ能力や知性、行動、言語は不定形であるのが基本だと思っています。
だとするならば当然人間の繋がり方もまた不定形なわけで、そうすると不確定要素が多く発生してしまい、とても関係を安定して維持なんてできない可能性が高くなってしまうわけですね。
人間関係のあり方は本当はとてもふわふわしている。だから、思考を整理したり言語化してやることによって型に嵌めてやるように、マナーによって人間関係に型をつけてやるわけです。
誰かは人間と人間の間に挟まる潤滑油と表現していましたが、それもまた表現系の一つであり、実質はこういう「型」の一つなんだろうな、と思った次第です。

型がないと困るというよりかは、型があることによってそれを導にして、どのように身を振舞わせればいいのかが少しはアタリをつけられるようになって楽になるというわけです。
もちろん、相手を不快にさせないという保障もあるでしょうが、それもまた「人間関係の不定形さ」を少しでも抑える要素の一つになるでしょう。
マナーというのは、そうして手探りで人間関係を作っていきながら試行錯誤を繰り返して形になったものなんだろうな、と思いました。
マナーは決まり、というのは、無秩序に秩序を与える役割をしているのです。

まとまらないなあ。

さて最後に「本音を出していくこと」です。
ちょくげ日記では成る可く本音を出していくように努めていますが、それでも全力の本音は難しい。どうしても言語化できていない箇所に言及しなければならなくなり、そこでごまかしが発生する。本音を出すことができないのは、多分思考が足りていないからなんでしょう。

人は本音を出したがりません。なぜなのかは知りませんが、先述の言語化の理由以外にも何かがあり、それが阻害しているのでしょう。
でもそれはあまり適切、健全ではないのではないかなと私においては思います。

私は隠し事をするのが苦手です。すぐ嘘がバレるし、どんなことをしているのかもすぐ見透かされます。
だから何か他人に伝わっていない自分の事実があると、その状態に慣れていないせいか、心がとても疲れます。知られるのが嫌なことももちろんあるけれど、基本的には私を知って、その人の中で私に対する対策を立てて欲しいというのがあります。

私があなたに「私を警戒しろ」と言ってもあなたは警戒しないのです。だからこちらから情報を出して、それで判断を任せるという方針をとっているのです。

だが声に出すのは面倒である。だからこうして文字に認めて人に読んでもらわないと、なかなか安心できない。

心の安息のために、私はこの日記を書き続ける。そういうことで今日は終わりでいいかな。

最後にここを読んでくれたかもしれない同期へ
あなたたちは私にとってすごくありがたい存在であり、同時に眩しくて直視できない存在です。そう思っている私でもいいのなら、これからもできるだけ長く一緒にいてくださると幸いです。
もしかしたら私がいの一番に辞めてしまうかもしれないけど、そうなる日まで、どうかお願いします。




あーあ。読んでみるととっちらかってる。統失の方も若干出てきてるかもしれない。こういうのは波があるんだよな。悲しい。ちゃんと考える訓練できてないっぽいな。