ちょくげノート

日々のことを綴ろうと思っています。はてなダイアリーが終了してしまったのではてなブログに全記事移行しました。

「お天道様は見ているぞ」

髭のアカウントのフォロワーと過去の話に華が咲いたのでブログにも書き記していきたい。

髭と私の関係について。

そもそも私だけに限って言えば、このDIDの発生機序は「願望」と「欲求」と「空想」であったとされている。そのような仕組みで生まれたと力強く説明されたからして、彼が生まれたのも、このような感情が由来していたからに違いないと考えるのだ。

髭は社交性が我々の中では最も高い。少なくとも私はそう認識している。そんな彼は、彼の恋人曰く「所属欲求が非常に高い」のだという。加えて彼の友人によれば「きょうだいからの期待に応えるべく自分にもそういうプレッシャーを与えている」とのこと。また、別の友人からは「主人格という責任に耐えられているようには見えない」としている。

そんな彼の存在は、少なくとも記憶に残っている限りのものでは幼稚園年中のころまで遡るように感じる。殴る蹴るの暴行を受けていた私を庇うように躍り出ては、彼がその周囲の暴行者の一人に反撃に出る。そういう景色が朧げながらに残っている。確実な記憶なのか、それとも私か誰かによって捏造された意識なのかは判別つかない。ただ、そういう景色が残っているのを認めるのである。髭は、そういう子だった。

今の髭は、社交性が豊かで、色んな人と関わりを持っては意見を交わす。そういうきょうだいに見えている。私には。ここでは記述しないある事件をきっかけに私が髭のアカウントに代替わりしてみて、人望が思ったより厚くなかった、ということに衝撃を受けては、私はこの景色が単なる願望に過ぎなかったのか、と自分を疑ってしまう。し、心の底では髭を頼りにしていたことに気付かされる。軽口を叩いたり、彼の悪いところを他人に愚痴ったりしていた心の奥底では、おそらく、髭に対して、甘えがあったのだと思っている。

髭との記憶の最古の時点で、髭が私から分出したのだとすれば、その頃の私、幼稚園時代の願望と言えば、二言で言えば「友達が欲しい」「遊び相手が欲しい」だったのだろうと推測がつく。髭は、それを、私が知らないうちに叶えてくれたきょうだいなのだと知る。

実際にそういう願望を持っていたのかは確証が持てない。自分で書いておいてまるでおかしな話だが、その当時の記憶や、景色や、感じたこと、思ったことを、まるで誰かに盗まれたかのように、自分のでなくなってしまっているのである。ただ、カタヌキで残されたガムの切れ端のように、核ではない部分の周辺情報は、残っている。跡形もなく消え去ってしまったわけではないことだけはわかる。カタヌキの切れ端を集めて、それで初めて「誰かが持っていった」事が分かったのである。

言葉ではこのように書いていても、実際は忘れているという一言で片付いてしまうのかもしれないし、超常的な何かが働いていたのだとしても、矛盾はないし、誰にも証明はできない。「誰かに奪われた」と表現するしか私には手段がないし、実質それが一番妥当そうに見えるのである。

髭は、思い返せば、私と遊んでくれたような記憶がある。一人っ子だから、マリオパーティも一人で遊んでいた。親にねだってコントローラを買ってもらって、何に使うんだと呆れられながらも、実際に髭と遊んでいた。確かに髭は、本当に、そこにいた。当時は髭なんて名前でも「聡明な少女の彼氏」なんて長ったらしい名前でもなかった気がする。この記憶は思い出せないし、なんなら、日本語で会話もしていなかった気がする。日本語名でないきょうだい。

髭は「私と遊んで欲しい誰か」という願望を叶えるために私が私に成り代わって生まれた私なのである。だから社交性が強くあってほしい、と、私たちきょうだいみんなから、そう願われているように見える。斯く在れかしと、想いと願いと祈りが、強く込められている。今ではそう見えているし、そう説明されたとして、矛盾はないようにも感じてしまう。

私たちは(線や狐、梟など、また、髭本人もそう思っているかどうかは全く断言ができないが)髭が社交性に優れ、他人との関わりを取り持ってくれる、頼り甲斐のある兄貴分だと思っている。または、そう思っていることにしたいのかもしれない。

私の、理想の友達。理想のきょうだい。

ところが、他者により「髭は社交性が君たちの平均から突出して高いわけではない」と指摘を受けてしまった。髭は今は寝込んでいてよかったと胸を撫で下ろす。……なぜ?なぜ髭が聞いていなくてよかったと胸を撫で下ろした?なぜ髭がこの事象を見聞きして落ち込むと勝手に思い込んだ?

 

違うだろう?

 

本当に落ち込んでいるのは、紛れもない、『私自身』じゃないのか?

斯く在れかしと願い祈りを込めた、私自身が生み出した私自身を、低く評価されることを厭うたからではないか?

そう説明されて、矛盾はないのではないか?

ヒヤリと背中に冷たいものが走った。もし私のDID症状が願望、欲求、空想から来ているのだとすれば、この願望を生み出したのは、少なくとも私の目線からすれば、私自身に他ならないからだ。髭でも毛でもない。この私だ。私が、そう、評価されることを、厭うたのだ。

しかしながら、こう説明されても矛盾は起きないのに、自身の経験や記憶、実体験を嘘偽りなく述べると、確かに異なった同一性の存在を認めなければならないし、加えて私毛の声でない声が、私毛でない意思の存在が、確かにあるのである。目には見えないかもしれないが、眼鏡をかけたゴツい兄ちゃんが私の隣にいるのである。線なら、すらっと背の高いお姉さん。狐なら、黒い服を着て、裸眼の、少し気が弱い女の子。きょうだいの特徴は、少なくとも私はすらっと27人分いえる。だって見えているから。いるから。存在してしまっているから。否定できないから。証明も反証もできないけれど、でも、疑って疑って拒否して拒否してもなお、確かにそこに居てしまっている。認めたくないと我儘を言っても、現実、少なくとも私たちの世界における、この空間には、確かに27人分の魂が存在している。

私は自分目線では生きるのもやっとな過酷ないじめを幼小中と合計11年間肉体一つで耐えざるを得なかった。DIDの一般的な発生機序に従えば、幼少期から思春期初期の人格形成ないしは成長過程における重要な期間を台無しにされ、さまざまな見地の統合に失敗をし、矛盾を抱え、脳に障害を抱き、そうしてDIDに至ったのであると説明がなされる。

そうなのだろう、と納得するしかできない。反論しても、医師に勝る説明が私にはできないし、当然他の大多数の素人にも難しいかもしれない。でも、説明はこれでいいのかもしれないと諦めのような、耳を塞ぎたくなるような、そういう気持ちがある。誰がどんなに丁寧に説明しようが、残念ながらというべきか幸いにもというべきか、きょうだいは消えないのである。DIDとは、そういう病である。

 

ここからは、私の恨言になる。過去に私を足蹴にし、ゴム毬以下の待遇で処してきた、悪辣外道なると私は評価する、そういう連中に対する恨言である。かなり偏重な意見と見られるので、以下は読まなくてもよい。

……と書いたはいいが、まるで牙を抜かれたように、恨言の輪郭だけが残って、肝心の中身が、前段落を書いてから30分を経過しても、まるで浮かんでこない。

確かに蹴られた。確かに物を盗まれた。確かに濡れ衣を着せられ辱めを受けた。確かに体に悪いものを飲まされた。確かに死んでしまうところだった。そういう周辺情報の状況証拠的な事象は想起するものの、肝心の、その中核が、誰かに盗まれて消えている。

何があったのか、全く思い出せない。思い出せないというか、周辺情報だけを残して、全てなかったことになっている。

絵のない額縁のように、そこに絵があったということだけを物語っていて、肝心の絵がない。私の苦しみを、私が代替わりしているのだろう。事実としてはそうだが、でも私は感じていない。感じる事ができない。思い出そうと時系列順に整理しようとしても、何かが介入して、私のアクセスを禁じている。

自己憐憫と見られても仕方がない言説を開陳している自覚はある。とはいえ、これは私の感じた(?)事なのだから、仕方がない。

 

ただ一つだけ言えるのは、お天道様は見ていても、助けてはくれないという事である。

DIDについて

今日のお題はDID(解離性同一性障害)についてです。私や私のきょうだいと仲の良い方は既にご存知と思われますが、中には知り合ったばかりで違和感を持たれている方も多くいらっしゃると感じたので投稿するに至りました。今回はこの障害の当事者としての見解と要望、私たちの場合のDIDを少し述べたいと思います。

DIDとは何か

解離性障害の最重度のものとされ、複数の明らかに異なる同一性(人格)の発露を認める状態とされています。旧名は多重人格障害とも呼ばれていました。ある文化圏では憑依体験として説明されることもこれに含まれるようです。

同一肉体の人間の中に、複数の明らかに違った性格を持つ人格がいるという状態は、外から見るとチグハグな行動に見えたり、言動の一貫性が明らかに異なったりなどで映るようです。

私たちの場合では「髭」が社交的な性格なのに対し、私「毛」は内向的であまり積極的に外部への交流を求めないなどの違いがあり、それがTwitterなどで発露され、違和感を持たれることに繋がったりするようです。また得意なことも異なり、私は言語を操作することが得意ですが「腕」はそうでなかったりなど、できることも違います。

DIDに至る多くの原因には幼少期に受けた重大なストレスがあると挙げられています。近親者からの性的、物理的、情緒的な虐待があると、小児は人格の形成に失敗し「逃避」をする結果に至ります。この逃避の実際は、感情や感覚、知覚を自分から切り離すという行為を伴います。結果として健常者が「一人の自分」の中に収めることができたさまざまな感情や経験を失ってしまうということになるのです。これは通常では説明のつかない健忘や記憶の欠損として表に現れます。薬物やアルコールなどでの一時的な健忘とは訳が違う、そう説明されます。

私たちのケースで言えば、私たちは幼稚園に上がる前から中学校にかけて、過酷かつ陰険ないじめに遭遇してきました。当時は全くきょうだいの自覚はありませんでしたが、それぞれの過去の記憶を参照してみると、髭が反逆したり、狐が泣いたり、梟が自殺を試みたり、私が言葉で詰り返したり、色々なことがあったようでした。

DIDの症状は発達障害と同様に個体差が大きいです。私たちの場合は、とりわけ私毛の目線での説明になりますが、自分という肉体が行った行動であるのにもかかわらず自分の記憶にはないことがある、頭の中で明らかなる自分以外の人間が会話を行なっている、などが挙げられます。今では連絡手段ですが、私たち個人の用いる日記帳に筆跡の違う文字で私の経験していない事柄が書かれるなどしていました。一般的な(?)DID患者の症状では、自分の体が変わったように感じたり、視覚や聴覚をはじめとする五感が変わったりするようです。

DIDの診断は当然医師によってなされます。幻覚の症状があるため、統合失調症やその他の精神障害と誤診されるケースも多いようです。そのためDID診断専用のテストを行い、他の精神障害の可能性をなるべく排除した上で診断をするようです。また、残念ながら詐病の方もいらっしゃるようです。そういう方はこの障害を持っていることを楽しんでいるように見受けられる、という話がありました。診断は困難を極めるため、私の立場としては、詐病としていたものが実際のDIDだったというケースもあると思っています。

私たちのケース

私たちのケースは、(通常はいけないことですが)複数の医院にかかったところ、幼稚園年中頃には発露されていたとみるのが適切なようでした。亡き母親からのエピソードで強烈に印象に残っているのは、泣いていると思ったらいきなり泣き止んで、大人の言葉で周囲の児童を捲し立て、泣かせたというエピソードを幼稚園の先生から聞いたというエピソードでした。このエピソードが参考になるかと思い、医師に伝えたところ、間違いなく当時から解離が始まっていたということです。加えて、小学校二年生の頃、小一の頃に級友が作成した図工の作品を壊して捨てたという咎で怒られたことがありました。これは私自身に全く身に覚えがなく、どうして怒られているのかわからずに泣いていたということがありました。これも解離のエピソードだというのです。

私たちの症状は、通常記憶の断絶と(私たち独自の言葉ですが)文脈の消失によって説明がつきます。その断絶を日記や各きょうだいが所有しているアカウントを集めたグループDMによって補完するということを為しています。脈絡のない場所にいる、脈絡のないものが家にある、などなど、そういう事柄の理由は大抵日記に書いてあるので安心ができます。

また、私たちは、各きょうだいそれぞれが得意分野を有しているという特徴が挙げられます。「線」(旧名「聡明な少女」)は数学が私たちの誰よりも得意で「崖」は各きょうだいを癒す、精神的蟠りを解きほぐすことが上手、舌が鋭敏で飲み物に詳しいという特徴がそれぞれあります。私は言語を操るのが得意で、思ったことをブログに書き留めるのが得意という得意分野があります。また喋るのが好きで、演説や説明などをするのが上手と自認しています。

私たちに接する上でどうして欲しいか

私たちは残念ながらというべきか幸福にもというべきか、27人各人各様の形態をとっており、その同一性の差異は他者から見て顕著と言わざるを得ないようです。ですから、私が考えるにみなさんが接する場合に念頭に置いて欲しいのは「各人格に接する際にはそれぞれ別人として扱ってくれるとスムーズに意思疎通が取りやすい」という事です。「各人格の統一が望ましい」とする治療の精神に逆らいますが、今医師から「人格の統合が難しい」と言われてしまっている以上、各人格の思惑だけでも統一するという観点に立脚すると、みなさんからは「別人のように接していただく」よりほかないと思っています。交代も頻回で、どうなっているかわからないと思う方もいらっしゃると思いますが、もし仲良くなりたいと思ってくださる方が少しでもいらっしゃるのなら、その方針をどうか採用してくださることを切に願って止みません。

また、私毛に関して申し上げるのであれば、私という人格は最重度のADHDASDを併発している人格です。ですから情緒的なやり取りは難しい事があります。加えて私は「書いてないことを読み取る」のが難しい性格です。これは「書いてないことを読み取らない」という訓練を行なった弊害でもあるのですが、とにかく隠された意図を汲み取るのが非常に難しい。ですから、お手数ではあるのですが、私に何かを伝えたいときは「思っていること、考えていることを全て言語化」して欲しいのです。かなり大変な作業であることは私自身承知しています。ですから、無理にとは言いません。なるべく言葉にして伝えてくださると助かります。

 

これで私たちの説明、ないしは要望は、一旦は以上となります。

思考の軽さと実行の重さ

思考をするのは実態を伴わない言葉だけの行為なので、非常に軽やかにどこまでも登っていけてしまう気がする。ふわふわとどこまでも飛んでいける気がする。

ところが、物理的結果を伴う実行に舞台が変わると、途端に何もできなくなる方が増えているように思う。例に漏れず、私もだ。私も実行ができていない。

思考には言語的結果以外何も残らないことが多いのに対し、実行は言語的物理的結果の両方を残すことが多い。ここで、物理に干渉するのは生き物にとって負担になる。これが実行の「重さ」の原因になっているように思う。

「解釈せずに手を動かせ」というのはわかっているのだが、肝心の手を動かすことに至ると途端に苦しみ、痛みを伴ってしまう。

物理干渉は非常に面倒である。現実世界に影響を与えるのに、思考上では見えてこなかった現実の問題に対処しなければならないからである。

「できるやつ」という概念は、思考が上手い個体を指さない。得てして実行がうまくいっている個体を指す。

私に足りないのは実行力だと思う。これが伴っていないから、思考だけが上にいって、実態が伴わないのである。これに気づけたのは僥倖であると思いたい。

まずは実行する。どう実行するかは、まだわからないけれど。

手を動かすことを始めたい。「できるやつ」と言われなくても、自分の思考を現実に反映させることができるようになれば、また自己肯定感も上がるのではないかと考えるからだ。

良い評価が得られなくても物理的結果を出したい。きっとここが正念場だ。

褒められず、評価されず、認められず、さらには自分の無能さ、かっこ悪さを見せつけられる痛みが伴うフェイズだと思う。

生きる限りでは、ここから逃れられない。

痛みは怖い。認められないのも怖い。でもここをなんとか駆け抜けなければ、私は何をするにしても空回りしてしまう。

「やらねば」という気持ちだけでは動けない。何か、そうせざるを得ない環境を周りに用意しなければならないだろう。

これについても思考を回さないといけない。そして実行。最初のステップは、なるほど本当に痛い。

どうすれば、どのように、何を、いつ、どこで。それも考える必要がある。そして、手を動かす。

尻込みしている自分がいる。なんとか、手を動かさなければ。

危機感はあまり良い感情ではないが、始動のエンジンをかけるのには好都合だろうか。

とにかく、手を動かそうと思う。できることは何か、探しながら。

ああ怖い。失敗も無評価も自分の無能に向き合うのも。

誰もがこの道を通っていて、私は通っていない道だ。そんな道を一人で歩くのは、怖い。

痛みが伴うのであれば尚更だ。

でも、行くしかない。

人様に強いてしまったなら私が行かない理由はない。

頑張ります。

ブログのネタ枯渇に対する対処

これは一般論なんですが、文章は書けない。そしてことブログはネタが枯渇しやすい。フレンズやフォロワーの中にもブログを書いているけれど、ネタになる出来事がなくて書けないという方は多いのではないかと思います。

そこで今しがた考えてみた、即席のネタになる事柄をいくつか書いてみようと思います。出来事を捻り出すので、身を削るネタになりがちなのはご容赦願います。

・自分のこれまでの人生を振り返ってみる

激痛ネタですがこれもきちんとネタなのでご勘弁。

自身の人生を振り返ってみると、結構ネタになる、独自性の高い事象が多いのではないかと私は勝手に推測しています。人間の人生は個別性が高く、他人の耳目を惹く事柄に溢れているのではないかと思います。自分が公開したくないと思う人生であれば、公開できるものを見つけて書くのはいいアイデアではないかと思います。

・書けないことをいっそネタにしてしまう

今の私ですね。はい。書けないということそのものについて、色々書いてしまうのはいいかもしれません。書けない、そこからいろいろなことが生えてくると思います。なぜ書けないのか、ネタがないからなのか、それとも他の原因があるからなのか。怠惰だからなのか、他に用事があるからなのか。書けないことに注目すると、いろいろなことが見えてくると思います。

・日記にしてしまう

若干今の私。書けないことに苦心しているけれど今日はこんな些細なことがあった、ということだけでもネタにできます。ブログが書けないとき、上でも書きましたが、本当に何もないということは少ないように思います。鬱で寝込んでいるなら別ですが……。

 

そんなところで今日はここまでにします。ありがとうございました。

久々にブログを書く 思案について

あまりに久しぶりすぎて書くことが多くなってきているが、私はあまり外に出て活動していないのでネタがない。よって思案によるネタ出しを行うのだが、私という人格がさらに外部に(肉体に)登ってきていないので深甚にネタがない。

思案についてネタを書いてみようと思う。私はなんだかんだで考えるのが好きで、なんだかんだで考えるのが苦手である。考えるのが好きというのは、腰を据えてじっくりと考えるのが好きという意味である。答えがわかる時はそれでいいのだが、日常課題のように直ちに答えが得られない思考は苦手らしい。それらしい結論が思い浮かぶと、パッとそれに飛びついてしまうのである。友人にはこの点を指摘されていた。思考の結果、何かしら結論は浮かんでくるものだと思う。

それについてパッと飛びついてしまうのは悪い癖だが、これを堪えると、次に問題になってくるのは「思考のトレースができない」という問題である。忘れるのである。ワーキングメモリだかなんだかの容量が少なくて、それで物を簡単に覚えるという記憶領域が弱いのである。文字に残すこのような作文でさえあれば、自分が何を書いたか、書きたかったかは覚えていられるのだが、口頭や脳内での思考はなかなか形にならず、揮発してしまう。

これを思考のステップが浅いことの理由にはできないだろうが、少なくとも一端は担っているように思う。

対策は「ノートに書き留める」であるが、これだけのために筆をとるのはかなり億劫であったりする。代わりにパソコンなどで書き留めているわけだが、これもまた作業のコストは重い。そうであるなら、やはり記憶力を高める訓練をしなければならないと思う。どのような訓練があるだろうか。これはnバック課題などの脳トレが浮かぶが、そう簡単にいくだろうか?

脳の話は一家言あるつもりだったが、色々な人の意見を聞いているとどうも私の見識は狭すぎたように思う。脳は単純ではない。それはそう。似ている課題をこなしたからといって、それに見合う日常生活の課題がこなせるようになるとは限らない。nバック課題をこなせたからといって、自分の考えていたことを辿る能力が鍛えられるとは限らない。

ではどうするか。実地で思考のトレースをしていく他ないのではないか。なので、今日からできる限り、自分の思考や思案の足跡を自分の脳内に刻んでいきたいと思う。

思考はできる。考えるのは得意そうとも言われている。だが、結論に飛びつくのが早すぎる。そう言われた。今出した結論もまた、短慮の結果だと言われてしまっても仕方ない。が、私にはできることしかできない。今はまだ思考のステップが短いけれど、そのうちにだんだん長くなっていくことを願いたいばかりである。その端緒として、このブログを記して、ここで筆をおこうと思う。

読んでくださってありがとうございました。

なりきりという私の半生と解離性同一性障害(DID)について

私というものと、なりきりというものと、DIDというものは不可分に結びついているように感じられる。

というのも、私が半生でやってきた営み、創作において、なりきりをやっている影でDIDが影響していたからである。

遠く昔のごっこ遊びからなりきりは始まった。マリオのヨッシーが好きで、それになりきって遊んでいた。幼稚園の頃、DIDの症状としては「いきなり大人の言葉で捲し立てて友達を泣かせた」があった。これは、母親からの伝聞である。

小学生になってパソコンを得てからは、文字の上でなりきることを好んだ。そのキャラになりきって、会話をすることを好んだ。小学生の頃のDIDの症状としては「覚えのないことで怒られる」「小学1年の頃の(身に覚えのない)出来事で小学3年の頃に怒られる」ということがあった。いずれも自分にとっては理不尽に映っている。

中学生の半ばになってから、本格的にキャラクターを立ててなりきるようになった。中学生の頃のDIDの症状としては「後ろに誰もいないはずなのに付け回されているように感じる」「知らない誰かと友達になっているような感覚がある」があった。これらはより後の大学生になって、DIDの症状であることを知らされた。

高校生ではリアルが充実していたので、そのようになりきりをすることを好まなくなっていた。高校生の頃のDIDの症状は、覚えている限りでは、存在しない。

浪人生になって、またリアルが荒れてきたのでなりきりに逃げた。その頃友達になったのが、Sさんである。同じ予備校に通って、同じ予備校で勉強して、数学を教えあったりして過ごしていた。中学時代のなりきり掲示板に顔を出していた常連さんであることも発覚して、それはそれは話が盛り上がったことを覚えている。

第一志望にまた落ちて、滑り止めで受かった大学に通うようになって、学業が忙しくなり、Sさんとその他3人の友人とは疎遠になる。年一で会って現状確認などはしていたけれど、浪人時代みたいに密に過ごすことはなくなっていった。

大学3年の頃に体調と精神を崩し、一回目の精神科にかかるようになった。そこでは私のことは「ADHD」であると診断が降った。そうなのか、と思いながら、学業を下手なりにこなしていく。

大学4年の夏頃、母が体調を崩して入院した。その頃から当時は「現象」と呼んでいたとあることが起きるようになっていた。「電車に乗っていたのにいつの間にか早稲田大学(ゼミ先の大学)にいる」「外を歩いていたはずなのにいつの間にか入浴している」などなど。この頃から、DIDの自覚症状は発揮されていたのだと今では思う。

そして大学4年の1月3日。母が亡くなった。ここから明らかに精神の調子がおかしくなり、買った覚えのない本や髪飾りなどが部屋に現れるようになっていった。「現象」もちぐはぐになり、風呂から上がったままの格好で公園に出没するなど、明らかに生活に支障が出るようになっていった。

二回目の精神科にかかる決心をした。そこで診断されたのは「解離性同一性障害」だった。

「別人格いますか?」と単刀直入に聞かれたのを今でも覚えている。

二回目の大学4年生、ボードゲームの友人ができた。その友人と交流しつつ、いろいろなことを気にかけ、これまでの人生を整理していた。

三回目の精神科。母が亡くなった病院の精神科である。「治療を続けていきましょう」とのことだった。

人生を整理している最中で、不思議なことが起きた。

Sさんの痕跡が自分の生活の中にあったのである。Sさんは同じ県内出身であったけれども、さすがにこんな近場で会えるような距離には住んでいなかった「はず」なのである。

それどころか、KさんTさんGさんの3人の痕跡も「ある」。

この頃はそれに蓋をして、しばらく放置してしまったのを覚えている。

大学を卒業して、一社目の会社に入社する。この頃はDIDを自覚できていて、ある程度コントロールも効いていた。

そしてやがてダメになり、退社する。

そこからの記憶は、目立ったものではあまりない。強いていうなら主人格交代が起きたくらいである。

その後のどこかで、Sさんたちは私の一部であるということを認識するのだけれど、そこからどのようにして今のいわゆる「予備校組」が結成されたのかは、わからないままである。

そのようにして、今の私は在る。未来はまだわからない。

 

2020/8/18 15:03追記

今思い出した。母親が亡くなった2017年1月3日前後に「線」が自覚されたのを思い出した。

彼女は当時は「聡明な少女」として名前を与えられていたのを覚えている。

私のわずかな数学知識を掠め取っては自分のものにし、数学をいきいきとやっていたのを覚えている。今でも彼女は数学に強い。

そして2018年の2月には「狐」が自覚されたのを思い出した。彼女は政治が得意で、人を動かすのに長けていた。それまではずっと「自殺人格」だったのを覚えている。かなり抑圧されてきた人格で、この後2019年1月に「蜂起」することになる。それを経て、今は通常の人格に格上げされている。

2019年4月では私はまた改めてなりきり界隈にジョインしようとしていたらしい。当時世間を賑わせつつあった「アライさん界隈」である。そこに入ろうとして作ったアカウントが私の自覚から分離されたのがあったらしい。そこで生まれたのが「手」である。危機管理能力担当で、危ないことをしようとすると止めてくれる人格に今はなっている。

さらに時を経て2020年1月には私の憧れるキャラクターである「美国織莉子」を模したアカウントが発生。自覚を振り回して色々とやっているようになった。彼女にも人格名が与えられて「夢」を名乗っている。今では管理者の一人らしい。

 

……これくらいだろうか。また思い出したら書きたい。

会話することとそれの非対称性

会話は重要なツールである。これがなければ私たちは孤独で、情報を摂取する機会が大幅に失われてしまい、狭窄な世界を過ごすことになってしまう。他個体とのやり取りはそれだけで情報の幅を広げ、摂取する情報を豊かにしうるものである。

ところが、会話はそれ自体で尊いものではなく、非対称的な要素を孕んでいるものでもある。よりよく会話をするために、以下に述べることを心がけてみると、会話がスムーズに行く可能性があるかもしれない。とりわけ、受信に焦点を絞って考えてみた。

 

会話は発信においては自分の引き出しから、つまり、すでに言葉にされた経験のある事象から成り立っている。そこから発信を続けるだけなので、難易度は低いと思われる。

ところが受信はそうではない。新出情報を受信することがあり得て、それは「キャパシティ」と「理解」の最低でも2ステップを経なければ適切に受信することができないのである。これは発信と受信の非対称性である。

「キャパ」について話をしよう。これは文字列の意味通り「受け入れの器」のことである。一旦ここに新出情報、未知の情報を載せることで、今自分が「未知に接している」ことを知るための器である。これは無くてはならないものである。無ければ、会話の一部分を聞き落とし、情報が落ちていくままになる。狭窄の一歩を進んでしまうことになる。

次は「理解」である。これは「キャパ」に載った未知の情報を解きほぐし、自分の言葉で整理する能力のことである。未知の情報を自覚したとして、それに自分の言葉で説明を与えてあげるのである。最初から言葉であることが多いものの、自分の理解のためには自分の言葉で整理しなくてはならない。これも不可欠である。欠けていたら、会話を鵜呑みにし続けるか、聞く耳を持たない人間になってしまうだろう。

発信に対する受信側の非対称性をご理解いただけただろうか。次には、これをどう養うか、身に付けるかを私なりに論じたい。

「キャパ」は身に付けるのが難しい。これは「自覚」だからである。自覚ということは、言葉にする必要がある。「キャパ」を身に付けるのにさらに言葉を要するというのは意外に思えるかもしれないが、何事も自覚に載せるには言葉の力は不可欠なのである。

未知の新出情報が得られたとき、人にもたらされる感情は「わからない」である。この「わからない」に気付いてあげられるかどうかが、「キャパ」の第一歩と言ってもいいかもしれない。「わからない」ものに「わからない」と適切に反応を返せるか。返せないのであれば、それは自覚が足りていないということになる。とりあえず「わからない」ものには素直に「わからない」と受け入れる感情を育てよう。

「わからない」ものは「わからない」。

さて、その「キャパ」が出来上がったら、その次は「理解」だ。理解はキャパと比べて幾分か難易度が低いように私には見える。同じく言葉の力を使うし、しかも直接に使うからだ。

「わからない」となったものに対して「わかる」ようになるためには、自分の語彙をもってして「説明」を付与してやる必要がある。この情報はなんなんだ?この情報は自分の引き出しにおいてどのような位置に付けられるんだ?そのように考えて、自分の言葉で説明が付けられた時、その新出情報は「わかった」となる。もちろん「わからない」ままのこともあろう。それはそれでいい。「わからない」ものにやはり「わからない」と説明をつけているのだから、それはそれでいい。そのまま丁寧に保存して、後日「わかる」ためにきっちり覚えておこう。

 

未知の情報に関しては会話のみにとどまらず、勉強や研究や仕事において頻出するものであろうと思う。そんな時には、このようにして「キャパ」と「理解」の両輪を活用してもらいたい。抽象的な話が続いてうんざりしているだろうが、実践は具体的すぎて綴るのに少し手間がかかる。ここはぐっと堪えて欲しい。

 

以上のように会話に関連して、自覚して言葉にしている人はそう多くはないと思う。そのような人たちが大半だと思う。

あなたが会話に関して何かしら不都合を覚えているときは、以上のことを思い出していただければ、もしかしたら何かの助けになるかもしれない。助けになれるように、私はこのブログを綴っている。