思考の軽さと実行の重さ
思考をするのは実態を伴わない言葉だけの行為なので、非常に軽やかにどこまでも登っていけてしまう気がする。ふわふわとどこまでも飛んでいける気がする。
ところが、物理的結果を伴う実行に舞台が変わると、途端に何もできなくなる方が増えているように思う。例に漏れず、私もだ。私も実行ができていない。
思考には言語的結果以外何も残らないことが多いのに対し、実行は言語的物理的結果の両方を残すことが多い。ここで、物理に干渉するのは生き物にとって負担になる。これが実行の「重さ」の原因になっているように思う。
「解釈せずに手を動かせ」というのはわかっているのだが、肝心の手を動かすことに至ると途端に苦しみ、痛みを伴ってしまう。
物理干渉は非常に面倒である。現実世界に影響を与えるのに、思考上では見えてこなかった現実の問題に対処しなければならないからである。
「できるやつ」という概念は、思考が上手い個体を指さない。得てして実行がうまくいっている個体を指す。
私に足りないのは実行力だと思う。これが伴っていないから、思考だけが上にいって、実態が伴わないのである。これに気づけたのは僥倖であると思いたい。
まずは実行する。どう実行するかは、まだわからないけれど。
手を動かすことを始めたい。「できるやつ」と言われなくても、自分の思考を現実に反映させることができるようになれば、また自己肯定感も上がるのではないかと考えるからだ。
良い評価が得られなくても物理的結果を出したい。きっとここが正念場だ。
褒められず、評価されず、認められず、さらには自分の無能さ、かっこ悪さを見せつけられる痛みが伴うフェイズだと思う。
生きる限りでは、ここから逃れられない。
痛みは怖い。認められないのも怖い。でもここをなんとか駆け抜けなければ、私は何をするにしても空回りしてしまう。
「やらねば」という気持ちだけでは動けない。何か、そうせざるを得ない環境を周りに用意しなければならないだろう。
これについても思考を回さないといけない。そして実行。最初のステップは、なるほど本当に痛い。
どうすれば、どのように、何を、いつ、どこで。それも考える必要がある。そして、手を動かす。
尻込みしている自分がいる。なんとか、手を動かさなければ。
危機感はあまり良い感情ではないが、始動のエンジンをかけるのには好都合だろうか。
とにかく、手を動かそうと思う。できることは何か、探しながら。
ああ怖い。失敗も無評価も自分の無能に向き合うのも。
誰もがこの道を通っていて、私は通っていない道だ。そんな道を一人で歩くのは、怖い。
痛みが伴うのであれば尚更だ。
でも、行くしかない。
人様に強いてしまったなら私が行かない理由はない。
頑張ります。