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@skywa2th2
自分をADHDと思いこんでいるただの低スペック人間多すぎでは?
2018年5月28日(月) 10時51分09秒
件のツイート主は鍵をかけてしまったらしいので文面のみの掲載。
無能とはなんなのか、私なりに考えていることを綴って記事にしてみた。
ADHDの話と銘打ってはいるもののADHDには言及しない。
・無能とはなんなのか
読んで字のごとく「能力のないこと」である。
デジタル大辞泉によれば
[名・形動]能力や才能がないこと。役に立たないこと。また、その人や、そのようなさま
とある。
能力の有無を語る前に、そもそも能力とはどういう場面で発揮されるのかを考えてもらいたい。
・能力とは
職場で能力を発揮する。
アカデミアで能力を発揮する。
部屋の片付けで能力を発揮する。
どのケースにおいてもとある共通点があることに気づかないだろうか。
「環境」の存在である。
我々人間は概ね社会などの「環境」に存在している。環境とは、周りの人間や、人間以外の「何かしらの機能を持つ存在」の羅列である。そこに我々は身を置いている。
その中にあれば、「差異」が見出されるのが自然である。違いが出てくるのである。
違いが出ると「比較」ができる。そして「優劣」という尺度が登場する。
能力とは性質と言い換えてもいい。その個体が有する縛られた条件。それが能力である。
・差異、そして尺度
そして先の「尺度」が、無能な人間を無能たらしめているのであると考える。
「無能」という言葉は時として人に焼き付ける烙印である。
環境に身を置いている以上、周りと比較されるのは必然で、ともすれば無能の烙印を押されることだってある。
しかし、無能とはただの烙印に過ぎない。
環境が変わってしまうと、もうそこで通用していた「尺度」を用いることはできなくなる。
サーカス団で優秀な技能を持った人間が、IT企業で優秀な成果を収められるかどうか言い切れないのと同じである。
数学でも同じことが起きる。ある順序を持った集合の元を、別の順序を持つ集合に持っていっても、もとの集合と同じ役割を与えられるわけではない。
能力の優劣は、環境に依存するのである。
何が言いたいかとっちらかってきた。
「無能」とは、その環境においてその個体の性質が、満足する水準でなくなっている状態である。
だから、あなたが「無能」である、と言われた時は、その環境の中でだけ、という但し書きが必ずつく。
あなた自身が本当に、あらゆる環境で無能なのかどうかは私にはわからないし、他の人間にもわからない。
あなたには有限の時間しかない。だから、全ての環境で自身の能力の水準をはかることは無理だ。
だから気落ちしないでほしい。自身が無能感に支配されているのなら、それは幻想である可能性が高い。
無能という烙印に負けないでほしい。私はそう思う。
最後に、ハルオサンという方の書いた記事を引用して終わりとさせていただきたい。
毎度話がまとまらなくて申し訳ない。
「ダメな人」は会社に必要だからいる、君のせいじゃない。
https://tenshoku-web.jp/dameiru/