ちょくげノート

日々のことを綴ろうと思っています。はてなダイアリーが終了してしまったのではてなブログに全記事移行しました。

私たちは説明を欲している

交代が頻繁に起こっている上に、どうやら気絶もひっきりなしにやっているみたいで、事業所ではかなり心配をされている。

今日に入ってから地震に遭遇したり若干寝坊気味になったりと踏んだり蹴ったりで、その上事業所のプログラムの取り組みもあんまり芳しくないときている。非常によろしくない状況だが、こればかりは時間が解決するのを待つしかないのである。

昨日まであったボドゲ会でのポーカーなんか、全く戦況を言語化できない有様だった。プリフロップでどれだけ賭けたか、その後の他プレイヤーのアクションはどうだったか、そのアクションから読み取れることは何か、ハンドレンジはどれくらいか、などという基本的とされる考察が何一つできていなかったのである。友人は若干キレ気味だったし「教えを請うなら相応の態度がある」と戒めの言葉ももらってしまった。そのあと完全に彼ら2人は萎えてしまってポーカーは終了してしまった。

自分のハンドはQJoで、フロップでJA9が捲れた。ここでもう「やった当たった」と思ってしまう程度には浅かった。ここで喜ぶのは浅いらしく、他のハンドで例えばJAなんか持ってる人には(ツーペアで)簡単に負けてしまう。JJでも当然負ける(スリーカード)。AAなんかきたらなおさらおしまい(スリーカード)。

そこで「いける」と簡単に判断した私の浅慮さにさすがに怒ったという次第だと思う。ここで怒られるのには文脈があって、私はその友人と「ポーカー講座」をやっていたのである。私は意見を発信するのにどうやら消極的な方で、その講座でも友人の解釈を聞き入れる一方で、私から発信することは何一つなかったと記憶している。それでは単なる講義であると別の友人から指摘され、尤もだなと思った。ともかく、その講座をやっていたにもかかわらず、そこでの考察がちっともゲームに生きていないのでは怒られるのは当たり前である。

話は変わって、私は受け身なきらいがあるらしい。卒業した大学に在学中、落としたプログラミングの単位があった。落単が確定した時にTAから「受け身な学生だなと思いました」と言われたのを今でも覚えている。自ずから積極的に物事を取り組むことがない、とまでは言われなかったが、何かを学ぶにつけ、自分で「これを使ってみよう」と思ったことは少ないのではないかと思う。数学にしたって「学んだことを使って次に進んでみよう」という発想に至ったことは少ないのではないか。これではまずい。ロジバンにしてもロジバンで何かを綴ることはあってもそれで誰かと話した経験など皆無に等しい。何のために6年間もロジバンやってたんだ、と愕然とする。

時系列を現在に戻し、そして遡ること一昨々日。金曜日にはAWSのイベントがあり、そこに参加したのだが、私はAWSに疎いどころか学んだ経験がほとんどないため、受けた説明のほとんどの感想が「おーすごい」「へーすごい」「便利そう」で片付いてしまった。ここで友人に指摘されたのは「あなたは勉強が目的になっている」という一言である。手段と目的が逆転してしまっているということを指摘された。

勉強は何かを身につけ、それを利用して別の何かを解決するための手段であるというものである。ところが私の場合は、勉強している自分に酔っ払っていたのだと思う。ポーカーを勉強している自分は何か凄いことをやっている、ような気がしていたのだと思う。そこまでは言い過ぎにしても、ポーカーの戦略を学んでそれを活かし、勝ちに行くという発想は無かったのは確かだ。

自発的な意思と目的意識が無く、与えられるままの情報に対し「これすき」「これきらい」で物事を峻別し、摂取する情報を選んでいたのだとしたら何と勿体無いことだろうか。そんな愚行を今まで気付かずにやってきたのであれば、私の人生は浅く薄く、ペラッペラなものであるとしか言えない。落胆するより他ない。その落ち込みが、無意識のうちに今の私にパフォーマンス面で悪影響を与えているのだとすれば、この不調に説明がつく。

説明。

本題に入る。

私たちは思考をする道具の一つに言葉を用いている。これは情報の一種である。情報とは差異であり、違いであり、区別である。その情報を意思を持って操れるように進化してきたのが人間の脳ということでよかろう。

一方で私たちと相対する世界の方には、意思というものは込められていない。世界への解釈の仕方として、神が宿るだの、神の意志だの、そういうものもあるだろうが、ここでは「世界に意思はない」としておく。世界とは、物理法則や本能に従って動いているものどもの領域である。

そんな世界を認識するには、人間はそのままでは認識できないと私は考えている。再現性の担保がまずは必要だ。それは「同じ条件で同じことをすれば同じことが起こる」という約束と、安心である。

それを確認すると、次はそれを自分で納得することが必要になる。

そこで初めて出てくるのが言語であるように思う。言語は自分の中でのみ操ることのできる「環境」ともいうべき代物であって、それでもって説明を行うのである。

脳が回ってなくておぼろげな説明で申し訳ないのだが、納得のプロセスには言語化のフェーズは必要不可欠であると考えている。

人間は常に現象や事象に晒されている。現象に対処する、つきあう、あしらうのにはその事象への理解と納得が必要である。

初めての物事に対面すると人間はまず戸惑いや怒り、悲しみなどの、「感情」を覚えるだろう。ほとんどの人間は慣れない事象に対して適応することがすぐにはできない。ここで、慣れてくるというのは「再現性が担保でき始めてきた」ということに他ならない。

そうして慣れた後に自分でその事象を再現しようと試みる。例えば仕事など。例えば学校など。その後にくっついてくる、その人間なりの事象への解釈が、その事象を再現する(説明する)理由として立ち上ってくるのではないだろうか。

説明とは言葉でなされる。その事象に対してわからないことをわからないと仮定できるのは言葉(言語)の力だろうし、それを解き明かしていけるのもまた言語の力によるものであろうと思う。

人間は初めての事象に不安を覚えるから、それを克服しようとして自力で説明を試みるものである。人間にとってわからないものというのは不快なものなのである。人間はわかろうとする。人間はわからないものをわからないままにできないのである。たとえ「わからない」と言っている人間でさえ、「わからない」という最も浅い言葉で世界を「わかっている」。

わかりの深度は人それぞれだ。深く理解している人間は多種多様で意味も違う言葉で世界を解釈し、2通り以上の目線で事象を見ているものである。そして他人を納得させられる言葉を持っている。他人の中で物事を再現させ、それを納得させるのである。

わからない人間はわかりの深度が浅いだけである。深められる要素は多分にあるし、他人から説明を聞いて「わかる」こともあろうかと思う。

私たちは説明を欲している。わからないことだらけのこの世界で、少しでも世界をわかっていこうという営みが、人生であると言ってもいいかもしれない。

その営為が集積されて誰でも見れるようにまとめ上げられたものが科学であろう。科学はわからないことが不快な、そんな人間たちすべての「生きようとした」結果なのかもしれない。

人間は幸いにして考えることができる脳を持って生まれてきている個体がほとんどであろう。私も自分で目的意識を持って、世界に関わっていけるようにしたいものである。まずは目的と手段をきちんと分別できるようになりたいものである。