ちょくげノート

日々のことを綴ろうと思っています。はてなダイアリーが終了してしまったのではてなブログに全記事移行しました。

エセアドベントカレンダー32日目「精神病は甘えだ」について

存在しない架空のアドベントカレンダーに登録して(してない)精神病に関する私見を書きたい。私の専門は言語学で、精神医学専門家ではなく、臨床医でもなく、社会学者でもないことは断っておく。

「精神病は甘え」という言葉がある。この言葉に私は否定的な意見を持っている。甘えている精神病患者などほとんどいないからである。そして私も「甘えていないと思っている精神病患者」であるからだ。

この「精神病は甘え」という言葉には、多分に未言語化の部分があるように思う。というのも、精神疾患を患った人々は、情報の発信能力に乏しく(とりわけ言語化の部分)誤解されやすいと考えている。

精神病患者は言語化の能力が制限されている場合も多く、状況としてもかなり逼迫している環境に身を置いていることも多い。そうなれば、場当たり的に言葉を紡いでいくしか発信ができないこともあろう。

その言葉足らずの言葉が、周りの健常とされる者たちに受信されると、文脈の切れた情報の足りない言葉にしか聞こえないのである。

ここでまた追加しておきたいのが、現代の日本における人間関係の希薄さである。個人的に観察して思っているのは、個人で完結する外界との関わり方を持っている人間が多いということである。もちろん積極的に人に関わっていく人もいるが、それは私の観察範囲内ではかなり少ない。

このことから、他者に無関心な人が多くなったと言える。これが「精神病は甘え」の言説が放たれる要因になっているように思う。

他にも、社会全体の雰囲気である「甘えを許さない厳しさ」も挙げておこう。

あるモデルエピソードを紹介したい。ここにAという精神疾患者と、Bという、苦労は多いが精神疾患の診断は降りていない健常者がいるとする。

AとBは同じ職場の同僚である。Aは度々疾患を原因とする不注意により、Bに迷惑をかけている。BはそんなAが迷惑だと思っており、Aが度々発する「私は病気で、すみません」という言葉に腹を立てていた。Bはついに「精神病は甘えだよ」と言ってしまった。

このようなモデルエピソードのような状況は日本各地で起きているのではないだろうか。

Aには不注意という落ち度があり、Bにはそれの原因を慮る想像力がないという落ち度があった。

もちろん安易に結論を導くのは危険である。しかし、私にはこの「患者側の発信能力の制限」と「健常者側の想像力と関心の薄さ」と「社会の厳しさ」は「精神病は甘え」言説問題に無視し難く存在していると考える。

先に述べた通りに、患者は情報発信能力が低いことが多く、表出する事柄は彼らが引き起こす「困った問題」が大きな割合が占めるだろうと考える。そうすると健常者の目からは「困ったやつだ」としか映らない。ここにさらに人間関係の希薄さが、患者自身の個人的なエピソードや来歴、疾患歴を無視させてしまう。そうして出来上がる健常者の持つ患者たちへの印象は「甘えている」なのである。

もちろん、実際に甘えている精神疾患者もいるかもしれない。しかしそれも理由があってのことだと私は考える。甘えなければならない理由があっての甘え、だと言いたいのだ。

私が患者側に助言したいのは「言語化の努力をしてみてはいかがか」という点に尽きる。

これはあらゆる精神疾患に言えることだが、まずは病識を正確にしなければ話は始まらないように思える。病識の存在がなければ、自分が病気だということがわからず、それに起因する事象を整理し切れなくなる。病識はないが困ったことが起こる人は、予約数の少ない精神科にかかるか(それも今は難しいとされているが……)カウンセリングの受診をおすすめしたい。

話は逸れるが、カウンセリングや精神科は、何も病んだ人専門の機関ではなく、精神の調律をする場所でもあるのだ。だから、偏見を持っているのならそれを取っ払って、気軽に受診してみてほしい。何もなければそれでいいのだから。

続いて患者側に伝えたいのは「周りの状況を観察してみてほしい」である。

自分を取り巻く環境の状態が如何であるかを観察し、評価を下すのは言語化より容易い場合が多い。もちろん複雑な事象においてはその限りではないが、職場のメンバーやコミュニティのメンバーを観察し、自分に対する対応がどのようであるか、どのような噂が立っているか、どのように評価されているかをあくまで「直接聞くのではなく」自分の感性に従って感じ取るのである。私はこれを苦手としているため、フィードバックは直接してくれる友人に頼んでいた。このブログを読んでいる大多数は発達障害精神障害のない人が多いと思うから、この行為は容易く行えると思う。

そうでない人は諦めろ、というわけではない。私のように重度のASDADHDを重ね掛けしている者にも、希望はある。私は言語化の得意な性質を生かして、環境を具に調べ上げた。私にしか通用しないコツで恐縮だが、この際のコツは「書いていないことや言っていないことを読まない聞かない」であった。これでは内心思っていることを汲み取れない大欠点があるが、それでも表出する事柄に沿って物事を処理すると、案外うまくいくのである。

精神疾患であるが故に環境の情報を汲み取る能力に欠損を抱いている者もいるかもしれない。そういう人でも、まずは(最初の一歩は何事も苦しいものだ)周りの環境がどうであるか、それが自分にとって快であるか不快であるかだけでも判断してもらいたい。

自分が身を置いている環境がどうであるかを判断するのは、最初は快か不快かなのである。

まずは、苦しいかもしれないが、周りが自分にとって快であるか、不快であるかを判断してもらいたい。

私は精神病患者であり発達障害者であるから、ポジショントーク的になって、これから書く健常者側への物言いはかなり厳しいものになってしまうかもしれないがご容赦願いたい。

そして健常者側に対するお願いである。

あなたたちは幸いにして、心身ともに健康であるから、精神疾患者に対して優位に振る舞うことができうる。そうした特性を活かして、やはりあなた方にも患者の周りの環境を観察してもらいたい。彼ら患者は、苦しい状況に立たされているかもしれないし、もしかしたら発達障害を抱えているかもしれない。そんな状況がわかったら、出来ればでいいから、彼ら患者に対して「彼らがどのように困っているのか」そして忘れてはならない「自分自身が何に困っているのか」をその能力を活かして言語化してもらいたい。発達障害精神障害は個々人によって症状が多岐に亘り、一般論で語り切れないものであるから、このように個別のケースに応じてオーダーメイドで処理していくしかないのである。「困りはオーダーメイド」という言葉がある。これの通り、あなた方の困りもまたオーダーメイドなのである。あなたは実際に精神疾患患者に困っているかもしれない。そんな時は「その患者に困っている」と思考を節約するのではなく「その患者のどういう行為に困っているのか」を自分なりに言葉にしてまとめていただきたい。出来ればでいいので。本当に。

そして社会にはもう少し寛容になってもらいたいと思うが、それは日々の生活が厳しい人が多いこの世の中では難しい話なのかもしれない。