ちょくげノート

日々のことを綴ろうと思っています。はてなダイアリーが終了してしまったのではてなブログに全記事移行しました。

性の在り方と創作

ジェンダー論素人なので気分を害する可能性がありますが予防線張る前にとっとと書けという話なので書く。

前稿の序盤で書いたラジオの主催者は「現実が先にあって、フィクションはそれを反映する。または追従する」とおっしゃっていた。私もこれに同意する。

ヒト個体の性自認や性指向の在り方の多様性は確認されてから久しい。(認められている、とは言い難い状態では現状残念ながらあると思う。)

性とは日常に根ざす非日常で、どんなポルノスターであっても、寝る時間と食べる時間の合計した時間以上セックスをしているわけではない。そして子孫を残すという生物に与えられた宿命を果たすために、性は存在している。(無性生殖は存在するがここでは無視する。)

日常を描いた作品であっても、そこには何かしらの非日常性が含まれている。そこと現実の落差が、面白さを生むのである。

であるからして性は娯楽の対象にもなりうる。日常に根ざす非日常だからだ。

さらには個人の性の在り方も好奇と興味の対象になる。個人の生き様自体が好奇の目に晒されるので、これ自体は自然である。

ここからセンシティブ。

個人の有している性指向は、多様性が確認されている今でも特殊性を帯びる。同性愛だとか、ポリアモリーだとか、浮気症だとか。そして、その話は不謹慎さを覚悟で言えば「面白い」のである。

フィクションは現実を反映する鏡だと彼はいう。

現実にこのように存在するからには、創作には題材として取り上げられる。私もその特殊性を面白がって、創作の題材にしている。(わいだん事務所とかね)

フィクションの性質は現実に先行するものでは滅多にない。確かに先見性のある作者がこの社会の来る先を見通していたりはするが、おおよその創作物は現実に根ざしている。そしてそこの落差を面白がらせる事を企図しているわけである。

フィクションを悪様に罵っても、現実は変わらない。

もしあなたが嫌いなフィクションを根絶やしにしたいのなら、そのフィクションが発生する原因、現実を変えなければいけないと私は思う。

現実を変える活動をしていると主張する人のほとんどは、それの表出物であるフィクションを標的に論っているように見える。

フィクションはフィクションである。現実ではない。