ちょくげノート

日々のことを綴ろうと思っています。はてなダイアリーが終了してしまったのではてなブログに全記事移行しました。

日本のインターネットの匿名性は「なりきり文化」だという話

ちょくげです。最近髭の知り合いで我々に興味を持ってくださっている方がいらして、その方のラジオに招かれては持論を垂れ流すということを一回やったのですが、その際に言われたことで気になったことを一つ。

「ネットの匿名性はある種のなりきり」という話。

話の文脈として、人々は文脈や付帯状況によってペルソナを替えるというものがあった。

彼は「2ちゃんねるの名無しも『名無し』というものになりきって投稿していた」という。

会話や対話のプロトコルからして、基本的に人間は「あなた(聞き手)とわたし(話し手)は意思疎通ができる」という標示が必要な生き物だ。そこで「なりきり」という能力は、このプロトコルを完全にクリアできる。

なるほどと膝を打ったのは言うまでもない。私が考えていた対話のプロトコル概念を彼はうまく言語化してみせた。

これを現実社会の共同体に話を拡大してみる。

我々が抱えている発達特性には「限定的な意思疎通の方法」というものがある。詳しくは調べてほしいが、平たく言えば「同じ方法でしかコミュニケーションが取れない」ということである。

これが「空気を読めない」「人とうまくやっていけない」などの障害の原因になる。

なぜ我々は意思疎通の方法が限定的なのか?

これは社会の空間でその共同体の構成員に「なりきれていない」からではないかと思った。

二次創作文化の「なりきり」はキャラの設定や作品を読み込めば、基本的にキャラクターはそこから動かないので比較的演じやすい傾向にあると思う。

ところが現実社会の共同体は「動く」。これはどういうことかというと、その共同体の構成員はその場その場の刺激に反応して形を変えたり、行動原理を変化させたりするからだ。生身の人間だから当たり前であるが、我々ASD者は、この機微に非常に疎い傾向がある。だから共同体の構成員に「なりきれない」のである。

そこから得られる結果は、もうお察しの通り「言葉が通じない」だの「空気が読めない」だのの共同体の不文律に背いているらしいことを窺わせる反応のオンパレードだ。

ここに対処するのは非常に難しいし、なんなら私自身も全く対処できていない。だから会社やインターネットに篭りがちになって、他者とのコミュニケーションを絶ってしまう。

そしてインターネットの掲示板文化は猛虎弁やねらー用語、淫夢語録で成り立っている共同体が多い。これは私は受け入れられなかったが(そしてその共同体に馴染めなかった)、受け入れさえすればそこの一員になれただろう。

Twitterに居座るようになったのは、その共同体構成員になりきりをしなくても居座っていいとお墨付きを与えられたように感じたからだと思う。「お前はそのままでいい」と。

それでもまだ爪弾きに遭うところは、いまだに多い。疎外感を感じないではいられない。

果たして私がどこかの共同体の一員になれる日は来るんだろうか。

私はどうやら人間だということに最近気づいた。人間は一人では生きていけない。

私を受け入れてくれる共同体がいつか現れる、もしくは見つかることを願う。

特定のこだわりを持って固定的かつ常同的な意思疎通の方法をする私

最近の世の中では「発達障害」という言葉がたくさん聞かれるようになった。

曰く、職場にいる、同級生にその疑惑をもたれる子がいる、などだ。

現行の医療用語では発達障害ではなく「神経発達症」と呼ばれるようだ。

私は医療関係者ではないので以下の文では旧称であるASDADHDなどを用いていく。

さて、私は診断によると最重度のADHDと中重程度のASDであるらしい。らしい、というのは診断書で見ただけで実際に言い渡されたのはADHDの方だからである。

うろ覚えで申し訳ないが、診断書には「特定のこだわりを持って固定的かつ常同的な意思疎通の方法を持つ」という文言が書いてあり、そこに丸が付けられていた。

ブログを見てわかる通りに、私の文章力はさほどではなく、加えて話題も豊富ではないのが見て取れるだろう。固定的な意思疎通の方法を持つ、というのはそこにも表れているのだと思う。

このような傾向をここではASD傾向と呼ぼう。

自然な問いが浮上する。「ASD傾向を持つ人間は社会生活を営めないのか?」である。

答えはおそらく「部分的にNO」であると考えている。ASD傾向を有する人の中にはコミュニケーションの手段が限られすぎていて、介助なしでは何もできないであろう方も含まれうるからだ。ではそうではない方はどうだろうか?

我々ASD傾向を有する者たちはコミュニケーションの形態に乏しい傾向があり、これが社会生活を営むのに障害となるというケースが多いように見える。無理矢理な比喩で言ってしまえば、進度と難易度が比例しないRPGで初期装備かレア装備しか持っていないような状態だ。そのような状態ではピーキーすぎて中間の難易度に対応できない。

ASD傾向もそういうものだと考えている。皆多かれ少なかれこの傾向を有しているのだとして、どうにかうまくやって合わせて生きていっているのだと思う。

しかし私のように重めのASD傾向を有する者は、社会生活はいささか難易度が高い。会話がワンパターンになってしまうし、同じ話を繰り返したり、別の反応を返すべきところで同じ反応を返してしまったり。要は、対話のバリエーションが乏しいのである。

それが悪いという価値判断は動員したくない。このような会話形態、意思疎通形態でも生き残っていける道はあると言いたいのだ。

ハッカーと云う言葉がある。正しい原義は調べてほしいが「道具一つでなんでもやってのける器用者」と云う意味だったはずだ。これが意味の変遷を経て「計算機科学などに精通する者」と云う意味になった。

ASD傾向を有する者は、その少ない意思疎通の形態を武器に、多彩に対応できるようになれると言いたいのだ。

具体例は思い浮かばないが、このような会話形態であっても、後付けで備え付けられる自分に合った会話の能力というものが備わるのだ。

幸にして私には平均を上回る知能が備わっていた。これを武器にして、どのような対応が相応しいか、考えていけるようになりたい。

誰か曰く、ASD傾向を有する者は「感情の機微に疎い」とする傾向が認められるらしい。

私はそれを肯定せざるを得ない。どのような状況であっても自分が受け取れる情報しか受け取れず、そして自分が推論できる範囲でしか推論できず、そこに潜伏する「発話者の感情」に気づくことがほとんどないのだ。

このようなテストをした。

「これから絵本の一部をバラバラにした絵を並べてもらいます。そこで私がお話のお手本を見せるからそれを参考に別の絵を組み立ててお話を作ってね」というものである。

私は絵から得られる情報は全て拾い集められし、作った話には論理的に整合性を保っていたものであったものの、心理士曰く「登場人物の感情は全く出てこなかったね」と言われた。そうなのである。私には他人の感情を汲み取る能力に乏しく、会話ややりとりやストーリーから登場人物の感情を読み取る能力が低いのである。

これが何度障害になったかわからない。オフ会で水をぶっかけられたり、泣かれたり、怒られたりなど、枚挙にいとまがない。

相手が何を思っているかわからないのである。これは開き直りではなくある種自然なことではあって、なぜならば我々人間の脳は頭蓋にて隔絶されており、それゆえに直接感情のクオリアを伝達する方法がないからである。加えて脳は個体によって発達の傾向や神経細胞のつながりが違っており、もし直接脳同士を接続する手段が開発されたとしても全く違う脳が考えていることは別の脳には解釈不可能である可能性が高い。

御託はここまでにして、私は相手がどう思っているか、そこに思いやりを馳せる能力に乏しい。先述した脳の隔絶を別にしても、いわゆる健常者たちは会話や記述に潜伏する感情を汲み取ることができている。そういう事実を受け止めるに、こういった感情を汲み取る能力は存在して、健常者はどうにかして感情のやり取りをするに至っているのだと考えた。

私が感情を汲み取るにはどうしたらいいか。感情が汲み取れるものだとするのならば、そこにはサインや特徴が含まれているはずである。そのサインと感情を結びつけて結論するのは、私にはいささかハードルが高い。が、やらなくてはならない理由も最近生まれてしまった。

私はどうやら、発話に伴う動機として感情が潜伏することを知らなかった。このような発話がなされるからにはこういう感情が潜伏しているはずだ、という推論を全く働かせてこなかったのである。

ASD傾向を有する者に恋愛を苦手とする者が多くいるのは頷ける話である。恋愛は思うに感情の塊であって、それのやりとりを日常的にしなければならないのは負担となるのは想像できる。

かといって、知り合いのASD傾向を有すると目される者には、恋愛を成就させて結婚まで成した者がいる。この例をみるに、ASD傾向を有する者であっても、恋愛はできるのだと信じられる。実際私にも恋人はいた。

話題は移って、それでは「ASD傾向を有する者は感情を持たないのか?」という問いがなされる。答えは「完全にNO」だ。私にも感情はある。悲しむし、喜ぶし、怒る。そしてそれは「わかりやすい」と他者から言われることが多い。然るに、私には感情があると言える。

幸にして「わかりやすい」私の特徴からして、感情を表現する手段は無意識にも豊富なのだろうと思う。問題は汲み取る側に回るときだ。このとき、私はどのようにして相手の感情を押し測るのか手段を持ち合わせていない。メタ認知が育っていないから、自分がどのような感情を持った時にどんな反応を返すかの観察もできない。

しばらくは、まだまだ苦労が続くだろうと思われる。

思い返してみれば、私は言語を操るのが得意だ。これは私にとって遊びやパズルのようなもので、飽きることがなく書き続けることができる。言語が意味するものを組み合わせて、どのような文章が編み上がるのか、自分で楽しみながら書くことができる。文章作成は「発掘作業だ」とする人もいるが、私は「工作や工業、エンジニアリング、プログラミングに近い」と言うだろう。元手の語彙を武器に組み合わせて、意味が通るようにつながりを考えて、そして文章を書いていく。この営みが愛おしいと思わないことはないのだ。

しかしそこに私の感情を読み取られたことはない。対面では「わかりやすい」私であるのに、文章になると「脳面のよう」と言う感想を幾度となくもらったことがある。これは文章において私が感情表現の技術を学んでこなかったからかもしれない。

でも、幸にして私には感情がある。だから、これから文章に織り交ぜていくようにしていけば、少しでもブログに彩りが出るかな、と思うのである。

文章を書くのが得意と言っておきながら、かなりとっ散らかった話題に終始してしまったが、ここまで読んでいただけて幸いである。これからもよろしくお願いします。

ロジバンの実力が低すぎて泣いている

泣くことではないかもしれない。

私は2013年からロジバンを学んできていた。が、これが面白いほど話せない。書けない。そして聞き取れず、読めない。

これだけで終わってしまうことに関して何を嘆いているのかと思われるかもしれない。

自分は創作をしたいと思っている者だから、何かを生み出していないと気が済まない。

それが今は何もする気になっていないから、そんな自分に絶望というか、悲しみというか、そういうものを抱いている。

寝てないからかもしれないし、今日はたまたまそういうことをする気になれないだけなのかもしれない。そうだったとしても、何も生み出していない自分がひどく嫌なのだ。

どうしてこうなったのか考える。私は運動がパッとしないし、勉強もそうそうできる方ではない。取り柄がなかったのである。そうなると、自分が一番偉くなったと勘違いできる空間が欲しくなる。そうしてそこに逃げる。耽る。その逃げ先が、私の場合は創作だったといえる。

どうも私は、自己承認欲求が非常に大きい割には、それを満たす手段が乏しいようだ。

無意識のうちに人の意識をこちらに向けようとして、過激な発言をしてみたりしているのかもしれない。構ってほしいのかもしれない。自分の奇特さを誇示して、それをみてもらうことで承認欲求を満たそうとしているのかもしれない。

替えが利く凡人。それが私を言い表す言葉。

どこまでいっても私は歴史には名が残らないし、誰かを感化することもできなさそうだ。

なら、生きている意味はなんだろう、となってしまう。

誰にも構われず、思い出されず。

そんな生き様に、私は価値を見出せない。

死にたいとは思わない。

せめて、何か爪痕を残していけたらいいなと思う。

エセアドベントカレンダー32日目「精神病は甘えだ」について

存在しない架空のアドベントカレンダーに登録して(してない)精神病に関する私見を書きたい。私の専門は言語学で、精神医学専門家ではなく、臨床医でもなく、社会学者でもないことは断っておく。

「精神病は甘え」という言葉がある。この言葉に私は否定的な意見を持っている。甘えている精神病患者などほとんどいないからである。そして私も「甘えていないと思っている精神病患者」であるからだ。

この「精神病は甘え」という言葉には、多分に未言語化の部分があるように思う。というのも、精神疾患を患った人々は、情報の発信能力に乏しく(とりわけ言語化の部分)誤解されやすいと考えている。

精神病患者は言語化の能力が制限されている場合も多く、状況としてもかなり逼迫している環境に身を置いていることも多い。そうなれば、場当たり的に言葉を紡いでいくしか発信ができないこともあろう。

その言葉足らずの言葉が、周りの健常とされる者たちに受信されると、文脈の切れた情報の足りない言葉にしか聞こえないのである。

ここでまた追加しておきたいのが、現代の日本における人間関係の希薄さである。個人的に観察して思っているのは、個人で完結する外界との関わり方を持っている人間が多いということである。もちろん積極的に人に関わっていく人もいるが、それは私の観察範囲内ではかなり少ない。

このことから、他者に無関心な人が多くなったと言える。これが「精神病は甘え」の言説が放たれる要因になっているように思う。

他にも、社会全体の雰囲気である「甘えを許さない厳しさ」も挙げておこう。

あるモデルエピソードを紹介したい。ここにAという精神疾患者と、Bという、苦労は多いが精神疾患の診断は降りていない健常者がいるとする。

AとBは同じ職場の同僚である。Aは度々疾患を原因とする不注意により、Bに迷惑をかけている。BはそんなAが迷惑だと思っており、Aが度々発する「私は病気で、すみません」という言葉に腹を立てていた。Bはついに「精神病は甘えだよ」と言ってしまった。

このようなモデルエピソードのような状況は日本各地で起きているのではないだろうか。

Aには不注意という落ち度があり、Bにはそれの原因を慮る想像力がないという落ち度があった。

もちろん安易に結論を導くのは危険である。しかし、私にはこの「患者側の発信能力の制限」と「健常者側の想像力と関心の薄さ」と「社会の厳しさ」は「精神病は甘え」言説問題に無視し難く存在していると考える。

先に述べた通りに、患者は情報発信能力が低いことが多く、表出する事柄は彼らが引き起こす「困った問題」が大きな割合が占めるだろうと考える。そうすると健常者の目からは「困ったやつだ」としか映らない。ここにさらに人間関係の希薄さが、患者自身の個人的なエピソードや来歴、疾患歴を無視させてしまう。そうして出来上がる健常者の持つ患者たちへの印象は「甘えている」なのである。

もちろん、実際に甘えている精神疾患者もいるかもしれない。しかしそれも理由があってのことだと私は考える。甘えなければならない理由があっての甘え、だと言いたいのだ。

私が患者側に助言したいのは「言語化の努力をしてみてはいかがか」という点に尽きる。

これはあらゆる精神疾患に言えることだが、まずは病識を正確にしなければ話は始まらないように思える。病識の存在がなければ、自分が病気だということがわからず、それに起因する事象を整理し切れなくなる。病識はないが困ったことが起こる人は、予約数の少ない精神科にかかるか(それも今は難しいとされているが……)カウンセリングの受診をおすすめしたい。

話は逸れるが、カウンセリングや精神科は、何も病んだ人専門の機関ではなく、精神の調律をする場所でもあるのだ。だから、偏見を持っているのならそれを取っ払って、気軽に受診してみてほしい。何もなければそれでいいのだから。

続いて患者側に伝えたいのは「周りの状況を観察してみてほしい」である。

自分を取り巻く環境の状態が如何であるかを観察し、評価を下すのは言語化より容易い場合が多い。もちろん複雑な事象においてはその限りではないが、職場のメンバーやコミュニティのメンバーを観察し、自分に対する対応がどのようであるか、どのような噂が立っているか、どのように評価されているかをあくまで「直接聞くのではなく」自分の感性に従って感じ取るのである。私はこれを苦手としているため、フィードバックは直接してくれる友人に頼んでいた。このブログを読んでいる大多数は発達障害精神障害のない人が多いと思うから、この行為は容易く行えると思う。

そうでない人は諦めろ、というわけではない。私のように重度のASDADHDを重ね掛けしている者にも、希望はある。私は言語化の得意な性質を生かして、環境を具に調べ上げた。私にしか通用しないコツで恐縮だが、この際のコツは「書いていないことや言っていないことを読まない聞かない」であった。これでは内心思っていることを汲み取れない大欠点があるが、それでも表出する事柄に沿って物事を処理すると、案外うまくいくのである。

精神疾患であるが故に環境の情報を汲み取る能力に欠損を抱いている者もいるかもしれない。そういう人でも、まずは(最初の一歩は何事も苦しいものだ)周りの環境がどうであるか、それが自分にとって快であるか不快であるかだけでも判断してもらいたい。

自分が身を置いている環境がどうであるかを判断するのは、最初は快か不快かなのである。

まずは、苦しいかもしれないが、周りが自分にとって快であるか、不快であるかを判断してもらいたい。

私は精神病患者であり発達障害者であるから、ポジショントーク的になって、これから書く健常者側への物言いはかなり厳しいものになってしまうかもしれないがご容赦願いたい。

そして健常者側に対するお願いである。

あなたたちは幸いにして、心身ともに健康であるから、精神疾患者に対して優位に振る舞うことができうる。そうした特性を活かして、やはりあなた方にも患者の周りの環境を観察してもらいたい。彼ら患者は、苦しい状況に立たされているかもしれないし、もしかしたら発達障害を抱えているかもしれない。そんな状況がわかったら、出来ればでいいから、彼ら患者に対して「彼らがどのように困っているのか」そして忘れてはならない「自分自身が何に困っているのか」をその能力を活かして言語化してもらいたい。発達障害精神障害は個々人によって症状が多岐に亘り、一般論で語り切れないものであるから、このように個別のケースに応じてオーダーメイドで処理していくしかないのである。「困りはオーダーメイド」という言葉がある。これの通り、あなた方の困りもまたオーダーメイドなのである。あなたは実際に精神疾患患者に困っているかもしれない。そんな時は「その患者に困っている」と思考を節約するのではなく「その患者のどういう行為に困っているのか」を自分なりに言葉にしてまとめていただきたい。出来ればでいいので。本当に。

そして社会にはもう少し寛容になってもらいたいと思うが、それは日々の生活が厳しい人が多いこの世の中では難しい話なのかもしれない。

SS界隈と私

SSは私とも切っても切り離せない関係にある。文章表現と漫画やゲームなどのカルチャーを私と結びつける、ほぼ唯一の活動だからだ。

私は物心ついた頃からゲームというものに愛着を持ってきた。同時に、キャラクターが登場するものにはたくさん触れてきた。そして幼少期から言語表現に親しんできたから、私がその表現者の側に立つことはなんら不自然もない、当然の成り行きだった。

SS執筆活動は、それをSSと知らない頃から営んでいるのでだいぶ長い歴史を自分の中で持っている。

一番古い記憶では、ごっこ遊びのシナリオがそれに当たる。当時は極限に友人がいなかったから、ひとり遊びである。その一人遊びに物語を持たせて、アニメのオマージュやゲームのシナリオなどを真似っこして、それで遊んでいたのであった。

本格的に文章を書き始めたのは小学校高学年だった気がする。その頃我が家にパソコンが初めてやってきて、それで文章を打つのがとても大好きだった記憶がある。

ブログも開設しないで、メモ帳にひたすら文章を打ち込む日々。それがやがてインターネットにつながると、名もなき掲示板でピクミンポケモンの二次創作を書き綴る日々に変わっていった。

ピクミンSSは今ではもう掘り起こせない深層に葬られてしまったが、オリマーが新種のピクミンに出会う物語だった気がする。

時は経て、今度はなりきりにも手を出していた。過去記事にもあるとおり、私はなりきりもやっていたのである。同じ頃からポケモンなりきりに手を出して、なりきりに勤しんだ。中学に上がる頃にもそれは継続していた。

なりきりの話ではないので話を戻すと、SS執筆活動は高校の頃にも継続していた。その頃私たちは吹奏楽部と放送委員会に所属していたが、その活動の傍ら、勉強もしつつガラケーやパソコンでぽちぽちカタカタSSを書いていた。

中学3年から一浪にかけては、ニュー速VIPでいわゆる「台本型」のSSが隆盛を誇っていた。私はそれを読みながら、たまに投稿されるポケモンSSやけいおんSSを目を輝かせて読んでいた。私はポケモンが好きなので、それはハマりにハマってしまった。

ポケモンのSSが投稿されなくなると、今度は2011年、まどか☆マギカにハマるようになった。こちらの作品ではなりきりには一般として絡む立場だったが、SSはたくさん書いていた。当時のガラケーで我ながらよくもまぁと思うほどの執筆速度だったと思う。まどかが死なないおりこマギカ軸、など、おりマギに軸を移したものが多かった。それはとりもなおさず、私はおりマギが大好きだからである。

まどマギが一時期落ち着くと、今度流行ったのはデレマス(モバマス)であった。iPad Proを買った2015年の夏頃に、デレステをダウンロードしたのである。そこでアイドルの魅力にゾッコンになって、今まで続くデレマスSS書きを続けるようになった。初投稿は2016年だったと思う。一番書いてたのは2017年だったが、今でも公開非公開を含め、いろいろ書いている。

 

SS界隈と絡むようになったのは、デレマスSSを書くようになってからだったような気がする。私のTwitterアカウント開設は2011年だったが、そのアカウントは炎上により凍結してしまい、残存するアカウントは2013年が最古のものである。

それは置いておいて、SS界隈と絡むようになって、戸惑うことが多かった。今まで個人戦で挑んできたものが多かった私のSSが、生の声を通して批評されるようになった。言葉は優しいが、自分の書いたものを評価されることが生まれたのは、私のSS人生に大きく影響を及ぼした。SSは一人で書くものだと思っていたからである。明確に「他者」の目線が入るようになった私のSSは、今までよりも人の目を気にするようになった。

私のデレマスSS初期は人目を気にしない放埒なものが多かったが、コミュニティに属すると、不器用な私なりに、人目を気にするようになってしまった。これが今思うと良くなかったと思っている。人目を気にするあまりに、奇を衒い過ぎてしまったり、無難にしすぎてしまったり、自分をアピールしすぎてしまったり。文章は人に読ませるもの、という意識の薄かった私は「SSは人と交流する手段だ」と勘違いしてしまった。自己主張、自己表現、自分の思想表現に驀進してしまった私のSSは、まとめサイトでもNIPの雑談スレでも、芳しい評価を得られなかった。

この後にけもフレSSの時代が来るのだが、それはNIPやVIPではあまり活躍しなかったように思う。カクヨムハーメルンなどに集中しているきらいがある。ピクシブも舞台だったかもしれない。

時は進んで、2019年。Twitterで限定公開の形をとりながら、Evernoteで細々と書くようになった。VIP生まれVIP育ちなので、あの手の掲示板に書き込むのが一番楽しかったのだが、評価の下がるのに耐えられなかった私は、少ない知り合いだけにSSを公開するようになっていった。これもタコツボ化を生んで、私の文章はさらに歪んでいくことになった。彼らが悪いのではなく、私が取る選択肢がことごとくまずっているだけの話である。

そして迎えた2022年。今年の方針としては、pixivでも公開しながら、NIPで引き続きSSを書けたらいいなと思っている。

英語でのファンフィクションも挑戦したい。どのような会話が自然かを研究しながら、英語を使って表現していきたい。

そう願って、今年の最初の抱負としたい。

以上。

新年の自己紹介とやってること紹介

あけましておめでとうございます、ちょくげこと毛です。

私がDIDを患っていることは先の記事にあげた通りでございますが、この記事では改めて私(たち)のできることを挙げていこうと思います。新年の自己紹介と思っていただければ。

毛のできること

これといえばやはり各種執筆と、言語化の作業、語学、言語学などなどです。水準としては低いものに収まると思うのですが、それでもやはり得意なものになります。

このブログ執筆の他にもSS(文章で描くファンアート)などを書いています。ものを書くことが好きなのです。こうして書いている間にも、さまざまな言語的アイデアが頭の中を去来しており、何を書くか迷うことがいまだにあります。

言語化の作業は、自分の狭い語彙の中から適切な言葉を選ぶ作業ですが、これもまた得意としているところです。個人(格)の中でそれぞれ為されていることかとは思いますが、私は得意な方ではないでしょうか。読み物として読めるものにする「推敲」とはまた違うので、読みやすくなっているかの保証はできないですが……。

語学は英語やフランス語をはじめとする自然言語のほか、ロジバンやトキポナなどの人工言語などさまざまにわたります。どれも興味が出てはかじってを繰り返しているので、ろくに意思疎通の道具にはなっていませんけれど、語学が好きで、得意だと自分で思っています。

言語学は、語学の垣根を超えて言語そのものに興味を向ける学問全体を総称します。その中でも私は構文論に興味があります。比較言語学や社会言語学にも興味がないわけではありませんが、構文の仕組みや意味構造の取り方など、さまざまな営みが行われています。まだまだ学びたてで、大した知識を披露できもしないのですが、好きな学問の一つではあります。もともとロジバンを志学した時に付随して興味を持ったものなのですが、なかなかどうして面白いものであって、興味をそそられる対象です。

そのほかの人格ができること

今私たちはITの職についており、その中でも私の好きなものである言語学関係の職業についています。

この分野はプログラミングができないと話にならないのはもちろんのこと、意外と数学や、以外でもなんでもなく言語学の知識が総動員されます。

きょうだいたちはプログラミング、数学、味覚の鋭敏さを活かした料理、人の気持ちをある程度読む、人の懐に潜り込む、などができます。

この中で仕事に生かされているのは、プログラミングと数学の知識です。ほかのきょうだいの能力も活かされる場面もなくはないですが、今のところは線と髭と私の能力が、仕事に生かされているようです。

まとめ

……なんかできること少ないな私たち!?

 

というわけで、自己紹介とできること紹介でした。

皆様今年もよろしくお願いします。

ロジバンを学ぶにあたって何が障害になっているか

私はロジバンが大好きであるが、多くの文を綴ってきた記憶がなく、生きた言語でないといまだに感じている次第である。

後発の人々が流暢にロジバンを話すようになっていく中で、私は未だにgismuを覚えきっていないし、慣用的に使われるcmavoである{la'e di'u}の意味も掴めていない。恥ずかしい限りである。

やる気がないと言われればそれまでだし、覚える気力も確かに熱意がない。英単語の方がまだまだやる気があるのは否めない。それでもロジバンに渇望があるのも事実で、それが空回りしているのだろうと感じている。

文法事項はさらえたし、それに関する複雑さの理解も進んでいると感じる。なぜ文が織れないのか?

原因の一つにはきっと「単語力の弱さ」が挙げられると感じる。

基本語彙gismuは大体1500が全て。それを浚うのに一苦労というわけでもなさそうなのに、どうやら私は厭うてしまっている。cmavoもそれくらいある。合わせて4000語彙程度なのに、どうして覚えられないのか……?

その原因は多分ロジバン文字列に馴染みがないということが挙げられると思う。

単語を挙げるが、以下の文字列にどのように馴染めばいいというのだろうか?

{prami}愛

{pendo}友

{nelci}気に入る

……などなど枚挙にいとまがないが、覚えるのに本当に一苦労した。

{kakne}可能

なども覚えているが、これだけでは書く表現する概念も限られたものになってしまう。

私は決心をした。ロジバン語彙を拡充して、もっと規則正しく、表現豊かに文章を織っていくことをしたいと思った。

 

……いいロジバンボキャビルの方法あったら、教えてください。お願いします。