ちょくげノート

日々のことを綴ろうと思っています。はてなダイアリーが終了してしまったのではてなブログに全記事移行しました。

普通の日記

マインドフルネスについてちょっと誤解していた。
瞑想と同じようなものだと思って、その瞬間瞬間に五感から感ぜられる、脳内で感ぜられる物事全てに注意しすぎずに注意して集中するものだと思っていた。
どうやら瞑想みたいに静かに座ってるだけじゃなくてもできるっぽい。

日本語の書き方、じゃなかったな、「書きたい言葉が見つからない人」という、文の書き方エッセイの一部の章で「語彙はきちんとあるのに、それを感じ取るためのセンサーが鈍磨してしまっている」とあった。
これの逆を行く、つまり鈍磨した状態から脱出するのもマインドフルネスの一つなんだと言えそう。

梶井基次郎檸檬では「鼻を撲つ」という表現を漢文の「売柑者之言」の引用で表現していたが、例えばこれは当時の梶井のマインドがレモンに対してフルネスだったからこその表現だろう。
俺ならなんと表現するだろうか。見てるだけで汁を啜りたくなるようなレモンだ。切って整えて搾ってやれば、じゅわーっと溢れ出てくるだろう。それをコロッケやカツレツなどの衣がついた揚げ物にワーッとかけてやるのだ。ああ、想像すると奥歯の奥の腺から、甘い唾液が滲み出してきた。
……となる。きっと他にも表現できるのだけど、梶井も私も、ちょうどそういう表現が浮かんできただけのことだ。
まあ梶井はプロだったから、きっといくつも考察や推敲を重ねる段階でいろんな切り口を見て組み合わせてみては棄てて、組み合わせては棄ててを繰り返したのだろう。
それで一番「つまりはこの重さなんだ」と感じたものを上梓したにちがいない。そう考えると、やっぱり梶井さんはすごい人なんだという思いが強化される。いや、名前が残ってるんだからそりゃすごい。それはそう。
何か目に入ったものを自分ならどう感じてどう表現するか、今日から徹底的に脳内でやっていこうと思う。
自分の精神の観察も忘れないようにしながら。あーこれ疲れるだろうなぁ。
しかし今日も起きたことに対してなんとなく素通りを繰り返してしまったような実感がある。決意したそばから表現のチャンスをむざむざふいにしてしまっている。まぁ、だから、なんだって話ではあるのだが。

金玉さんは逆のスタイルを行っていると思う。ノリとフロウが出たら思いつくがままに文章を書き連ねているのだろう。本人もそう言っていた気がする。言ってなかったら申し訳ない。
今私もそのようにしてみているが、聞いている音楽が日本語だったりすると大変にややこしくパニックに似た何かになるのが手に取るようにわかる。
いまも右手がワタワタして文章の流れが止まった。人差し指と中指がトリルみたいにピクピクしている。

昨日一昨日のアレ以降から体の震えはちょくちょく出るが、あまりに薬は効きすぎるので、薬を飲むほどではないとして学校に出かけてきた。らしい。
らしいというのは、交代が起きていたからだ。
目覚ましアプリによると今朝は9時の起床で、1時間で飯を食ってウダウダして11時になる前に家を出た。らしい。
1限どころか2限ですらアウトな登校だが、前期休学だからこそできる余裕というやつだ。
木曜は管理者が生活してて、金曜は登校して談話室にに入るまで聡明な少女がやってくれたらしい。
少女、すごくて、なんとカバンを整理してくれた。管理者もちょっと部屋の片付けを頑張ったみたいで、本がいいところにいい感じに収まってる配置にしてくれた。ゴミは捨ててくれなかったらしい。「ゴミかどうかわからないから」だそうだ。手帳に書いてあったことだから、なにがどう「ゴミかどうかわからない」のかわからなかったけど、片付けのことなんだと今日記に書いていて思った。

最近の朝がいくら清々しくても、やっぱり朝の「おう、時間だよゥ」「早くしな」っていう母親の声がしない朝は慣れない。
後期からはそうも言ってられなくなるから、今のうちになんとかしておかないと余計引きずる。
母親はきっと「自分の死によって俺が苦しむ」ことを善しとしないに違いない。
生前はいつも、家族に先立たれては嘆きに嘆いている遺族に対して「これじゃあ死んだ息子さん(お母さんでもお父さんでも娘でも)成仏できないよねえ」と常々漏らしていた。
今にして思えばこれは母親が達だったのか、あるいは母親の両親が健在であることにより未経験だったからなのかなんだかで、遺族の心持ちがわからないが故の言葉だったと思える。
そして自分もなんだかんだでその意見を肯定していたものだった。
だが、いざ自分が母親を失ってみると、これが本当に辛いことこの上なかった。
本当にしんどいと思っている。でも悲しんでばかりでも時間は一瞬でも待ってくれないから、私は進むしかないんだ。
できれば明日は7時に起きてはMOCO´sキッチンを眺めてまた学校に行くんだ。いや、まあ、病院だけどね。
てか明日、いや今日は土曜だからZIPやってないじゃん。だめじゃん。てか、テレビ映らないじゃん。ハハハ。はぁ。

こういう風にして、生前の母のいた生活のかけらはどんどん失われて行く。
1月3日に死んだその時、心電図に0が表示されていたことも、触れた肌が冷たく固かったことも、唇から色が失われていたことも、葬儀屋が来た時も、病室から葬儀屋まで運ばれて行く時も、火葬で出棺するときも、火葬する直前のあの顔も、骨になって出てきたあの姿も、骨をつまんで骨壷に入れたあの時も、骨壷を抱きとめた時の予想以上に軽かったことなど「死んだ」とわかる現象はごまんとあった。
そんなことよりも、そのとき以降の日常で母親の影がないことで「ああ、そういえば死んだんだったな」って思ってしまう方がしんどさが胸にのしかかる。
次はどういうところでこのしんどさを感じてしまうのだろうかと思うと、ちょっと怖くもなる。
でも怖がってばかりだと、前に進めないんだよな。本当に、生は有限なのに、死はそこから永遠に続くから、嫌いだ。
そう綴ったらものすごく気分が沈んできてしまった。帰るのもしんどいくらいに心が陰鬱だ。帰るってどこに帰るのか。今は家だぞ。

しかし感情はある程度したらすこしだけ戻ってきた。
常守朱かよってくらい損傷→復帰のサイクルが早い。果たしてメンタルが強いのか、それとも心が狭いが故なのか。
多大なダメージに耐えられる精神が欲しいと思う。強く強く思う。
自殺人格が今はどう思っているのか知らないが、今の私の精神が本当に死のうと思ったとき、どんな損傷が私を襲っているのだろうか。
考えないほうがいい気がするな。

話を変えよう。
いつだったか、「いい文を書くには悪文と良文を見分けなければならない」という旨のブログを読んだが、果たしてそうだろうかと思った。本だったかな。
人に読まれる文であるからには良文を書く方がいいのは確かなのだが、それよりも前の段階があるだろうと思う。
ある一つの物事に関して、一つの目線を持ったらその目線以外の目線で見つめ直してみることだと思う。
さらにそれを表す言葉を、自分でひねり出して、何個も何個も並べる訓練なのだと思う。
この日記だってもう一回書こうと思えば書けるが、きっと同じようには書けないだろう。
文の訓練て、そういうのなんじゃないかな。第一に感性。目線を増やそうってことだね。気づいていこう。

で次に語彙。その情景や景色や感情を表現する方法を多く持とうねということだ。
最後には量と継続だろうと思う。せっかくの新しい目線も使い続けなければきっと忘れるし、そうでなくても語彙は最たるもので、何回も紙に書いたりしても、何かしら文の中に組み込んで使ってやらねばさらりと忘れてしまう。
唐突だが山雀利根という言葉がある。古いやり方に固執していることである。……こういう風に不自然でも、文として使ってあげることが重要なのではないかな。
そもそも語彙は多いに越したことはないが、周り見てるとそんなに語彙を多く持っている人は見ないしな。相手が知っている言葉で、私が知らなかった言葉など専門用語を除いてはそうそうないが、逆は割とあった。
私のかつてやった、「辞書を全て読んでやろう」という高邁な(ともすれば高慢か)態度もきっとそういう語彙を使った文章を世に出さなくなれば忘れ去られてしまう。文を書くことが、表現することが、感じて行くことが、語彙を増やす近道だと思うことにした。
自分の中で使って、文脈を絡繰しなければならない。語彙ってそういうものだ。意味だけだとどうしたったって覚えられない。辛いもんだ。

日記(文章)のテーマは一つに絞れって約束したのにもかかわらずとっちらかった。まあこれも私の日記の味と思えば愛嬌だ。